大正ロマンの時代も圧倒的に「見合い結婚」が主流。この頃、新聞が普及し始めたことで、自分の略歴や相手の希望条件を新聞に掲載し、見合いや結婚の相手を探そうとする「結婚広告」が出現した。また明治17年、東京・日本橋に「渡辺結婚媒介所」が誕生、仲人が「高砂業」というプロの職業として定着した(中山太郎著「日本婚姻史」ほか)。村落共同体が崩壊し、男女が地縁・血縁だけを頼りに結婚相手を探すのが難しくなったわけだ。
また明治31年には、近代西洋を模倣した「明治民法」が施行された。それまで村落や家単位に委ねてきた結婚を、法制度の中に組み込み、国として武士階級の世継ぎの思想や「一夫一婦制」を採用するもので、これだけ聞くと、民法が女性の地位向上や、憧れのロマンチック・ラブ実現に一役買ってくれたのではないか、とも錯覚する。
だが、いくら恋愛結婚が理想とされても、現実には見合いと肩を並べるなどあり得なかった。世間ではまだ遊郭や妾が公然と認められ、相変わらずの男女不平等時代。
民法も、形式上は男女の婚姻年齢を「男性17歳、女性15歳以上」としたが、その一方で、男性30歳、女性は25歳になるまで、結婚には両親の同意が必要、と定めた。いまより寿命が短かった時代、25〜30歳といえば適齢期もいい加減過ぎていたろうが、それでも「家(戸主)」の意思が前提で、「親に逆らって恋愛結婚」は、ほぼ不可能だった。
そんななか、明治34年、歌人・与謝野晶子はのちの夫・鉄幹との不倫を貫き、妻からの略奪愛を成就させ、その恋愛感情を詩に詠んだ。それが有名な「みだれ髪」。
「やは肌のあつき血潮にふれも見で さびしからずや道を説く君」
など、情熱的な詩で知られるこの作品は、おもに女性から好評を得る一方で、社会的には「不道徳だ」と糾弾された。明治時代の理想と現実の乖離を、大きく物語る一例だ。
さらに大正時代に入ると、先の白村らの影響もあって、恋愛至上主義の原型が確立する。
この頃から、一部の階層で恋愛結婚が現実のものとなり始め、少しずつ近代家族の基礎が築き上げられていった。自宅での結婚式が減る一方、娯楽施設が増え始め、神前結婚式のあとの宴会は、料理屋かホテルで行われるようになった。
そして大正12年。関東大震災で多くの神社が焼けたのを機に、東京・帝国ホテルは内部に多賀神社を祀り、美容室や写真館をも相次いで設置。結婚式を挙げる場所を失った新郎新婦のために、結婚式から披露宴まで一貫して執り行う「ホテル結婚式」の原型を創り上げた(15年3月10日掲載/リクルート「じゃらん」帝国ホテル施設ブログ)。
そして大正時代、恋愛の美しさ、素晴らしさを世に広めたものといえば、大正ロマンだ。代表する文化人に、小説家の有島武郎や劇作家の島村抱月、女優の松井須磨子、詩人の北原白秋、画家の竹久夢二、そして「元始、女性は太陽であった」の名言で知られる思想家・平塚らいてうがいる。
ただ、彼らが恋愛を追求しすぎたために悲劇を呼んだことは、あまりにも有名だ。
たとえば有島武雄は、女性誌「婦人公論」の記者と心中、松井須磨子は島村抱月を後追い自殺、北原白秋は人妻との姦通罪で告訴された。また、平塚らいてうは夏目漱石の弟子(既婚)と心中未遂、数々の恋愛遍歴で知られる竹久夢二は、同棲中のお葉が恋路に悩んで自殺未遂・・・。
恋愛こそが人間の最高価値、とするロマンチック・ラブの流行は、多くの文化人の間で、失踪や心中、自殺や薬物依存、自傷行為などを招いたのだ。
さらに、性交渉も含めた自由恋愛が進めば、意図せぬ妊娠も増える。
明治元年、政府は富国強兵などの理由もあって中絶を禁止する法令を発令したが、その後も隠れて行う事例が多発。大正末期には、大阪で医院と製薬会社と旅館が結託、大規模な堕胎手術を行っていたとして摘発された(1926年「朝日年鑑」)
つまりこの時代、「自由恋愛と”リスク”は隣り合わせ」だという避けられない事実が、様々な形で白日の下にさらされたのだ
ショパン・マリアージュ(釧路市の結婚相談所)
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