30代男性!真剣交際へ💛恋愛経験ゼロでも……
ヴェールマリアージュ田園調布(東京都)
2025.03.22
ショパン・マリアージュ
「あなたを愛している」と人は言う。しかしその実態は、**「あなたに愛されたい」「あなたに必要とされたい」**という一方的な欲望にすぎないことが多い。加藤諦三はこのような「愛の偽装」に何度も警鐘を鳴らしてきた。
「人を本当に愛することができるのは、自立している人間だけだ」と彼は言う。つまり、自分が誰かに愛されなければ存在の価値が揺らいでしまうような人は、「人を愛する」ことなどできないのだ。彼らが求めているのは、愛ではなく自己確認であり、愛という名を借りた依存である。
加藤がこの点を繰り返し強調するのは、日本社会においてこうした「愛の誤解」があまりにも蔓延しているからだ。特に親密な関係において、愛されたいという欲望が「愛している」という言葉にすり替わるとき、関係はすでに歪み始めている。
加藤はある講演でこんな話をしている。ある女性が「夫が冷たい」と相談に来た。彼女は日々、掃除、洗濯、料理を完璧にこなしている。「こんなに尽くしているのに、どうして夫は愛してくれないのか?」と彼女は嘆いた。
しかし加藤は、静かにこう返す。
「あなたは本当に夫を愛しているのですか?それとも、愛されたいのですか?」
女性は沈黙した。そして、ぽつりと「たぶん……愛されたいのだと思います」と答えた。
ここにこそ、「愛されたい欲望」と「愛すること」の本質的な違いがある。彼女がしてきた“献身”は、実のところ「愛を得るための交換条件」だった。愛は取引ではない。与えるものであって、見返りを期待するものではない。
この問いの背景には、加藤がライフワークとして研究してきた「劣等感」と「自己否定」がある。
幼少期に親から十分な愛情を得られなかった人、否定されて育った人は、自分を「愛される価値のない存在」として内面化している。そのため、他者の愛を常に外側から補給しようとする。これが「愛されたい病」の根源である。
加藤は著書『自分に気づく心理学』でこう記している。
「自分を受け入れていない人は、人を受け入れることができない。そして自分を嫌っている人ほど、人に愛されようと必死になる」
愛されたいという欲望は、自己嫌悪の裏返しである。自己肯定感が低い人は、自分の存在を他者の愛情によってやっと支えている。そのような人にとって、「誰かに愛されている」という感覚は命綱なのだ。
加藤はよく「二人の人間が一緒にいて、寂しいと感じるとき、それは愛ではない」と言う。
ある男性が、恋人に強い束縛をするタイプだった。彼は常に「どこに行っていたの?」「誰といたの?」「なぜすぐに返信がないのか?」と彼女を問い詰めていた。彼女は次第に疲れ果て、別れを告げた。
彼は泣きながら「僕は彼女を本気で愛していたのに……」と語った。しかし、加藤はその心理をこう解釈する。
「彼は彼女を愛していたのではない。彼女に自分の空虚を埋めてほしかっただけである」
つまり、彼がしていたのは「愛」ではなく「所有」だ。愛とは相手を自由にすることであり、所有とは相手を自分の道具にすることである。
加藤が述べるように、「愛されたい」と強く願う人ほど、実際には誰からも愛されない。なぜなら彼らの愛には重さがあり、圧迫感があり、相手を自由にさせないからだ。人は自分を縛ろうとする者を本能的に避ける。
本当に人を愛せる人とは、こういう人である。
このような人は、自分が愛すること自体に喜びを感じており、結果として相手からも自然に愛されるようになる。「愛されたい」ではなく「愛すること」を選んだ人だけが、結果的に豊かな愛を手にするのだ。
加藤は「人を愛するには、まず自分を愛することから始めなければならない」と言う。自分を認め、自分の感情を受け入れること。そこからしか、人を真に愛する力は生まれない。
加藤はまた、こうも述べている。
「人を愛するというのは、自分自身にくつろいでいることの延長線上にある」
つまり、自分という存在を安心して感じられる人間こそが、他人に対しても穏やかな愛情を注ぐことができるのである。
加藤諦三はその著作で繰り返し、「自己肯定感」の重要性について語っている。自己肯定感とは、自分がこの世界に存在する価値のある人間だと信じる心の土台である。それは自己満足でも傲慢でもなく、「私は私であっていい」と思える、深い内面的安定感のことである。
この感覚がなければ、人は他人との関係において常に不安と疑念にさいなまれる。自分を肯定できない人は、他者からの評価によってしか自分の存在価値を確認できず、その不安が「支配」「依存」「操作」といった形で人間関係に現れる。
加藤はある若者の例を挙げる。
その青年はいつも恋愛がうまくいかず、「どうせ自分はまた振られるに決まっている」と言う。彼は相手のちょっとした言動にも過敏に反応し、不機嫌になったり、相手の気持ちを試したりする。「本当に僕のことが好きなら、〇〇してくれるはずだ」と。
加藤は、こうした行動の根底にあるものを見抜いている。それは彼の**「自分には愛される資格がない」という深い信念**である。だからこそ、相手の愛情を信じることができず、常にそれを確認しようとし、試そうとする。
ここに、愛が成立しない理由がある。自己肯定感が低い人は、愛されることに罪悪感を持ってしまうのだ。
加藤諦三は、自己肯定感の形成において最も影響を与えるのが「幼少期の親との関係」だと指摘する。
子どもが何かを失敗したときに、「あなたはダメな子ね」と人格を否定するような言葉を浴びせる親。そのような環境で育った子どもは、「私は価値のない存在なのだ」という誤った信念を内面化してしまう。
一方、子どもが失敗しても、「大丈夫、失敗してもあなたは大切な存在だよ」と伝える親のもとで育った子どもは、自分の価値を条件づけではなく「無条件の存在価値」として捉えることができる。
加藤はこれを**「愛される経験」と呼ぶ。**
自己肯定感がある人は、自分の感情や価値観を信じることができる。そのため、他人の価値観を必要以上に否定したり、踏みにじったりする必要がない。つまり、自分を肯定できる人は、他人をも肯定できるのである。
ある看護師の女性の話がある。彼女は仕事柄、多くの患者に接する中で、理不尽な言葉を浴びせられることも少なくなかった。しかし彼女は怒らず、丁寧に対応していた。
「どうしてそんなに穏やかでいられるんですか?」と聞かれたとき、彼女はこう答えた。
「だって私は、私がやっていることが正しいって分かっているから。怒られても、私は私でいいんです」
このような態度が、加藤の言う「成熟した人間関係の愛のあり方」に直結している。人は、自分にくつろげるとき、他人にも寛容でいられるのだ。
加藤諦三は、「感情を爆発させる人は、まだ心が未熟である」と述べている。
成熟した人間とは、自分の怒りや不安を内省し、それを人にぶつけずに処理できる人間である。つまり、「傷つけられたからやり返す」「愛されないから相手を責める」というような反応的な行動ではなく、感情の起伏を俯瞰し、言葉と態度で責任をもって表現できることが成熟の証なのだ。
愛するということは、相手に対して誠実に接することであり、それは同時に、自分の感情の責任を取る力を意味している。
愛されたいと願う人の多くは、幼少期に十分な愛を経験していない。その空白を他者によって埋めようとするが、結局どんな相手であっても満たされることはない。なぜなら、その傷は他者によって癒されるものではなく、自分によってしか癒せないからである。
加藤は次のように述べている。
「人を愛するには、自分の中の哀しみに気づき、その哀しみを抱きしめることが必要である」
自分の弱さ、情けなさ、寂しさに向き合い、それでも「私は私を受け入れる」と言えるとき、初めて人に対しても無条件の愛が注げるようになる。
最後に、加藤が提唱する「自己肯定感を育てる方法」をいくつか挙げておこう。
こうした日々の積み重ねの中で、人は自分にくつろぎ、穏やかに他人と関われるようになる。それが愛の出発点であり、土壌である。
愛とは何か?という問いを投げかけると、多くの人が「誰かを必要とすること」と答える。しかし、加藤諦三はこれに警鐘を鳴らす。
「誰かがいないと生きていけない」というのは愛ではない。それは依存であり、心理的未熟さの表れである。
ここで私たちがまず理解しなければならないのは、「依存と愛は似て非なるものだ」ということだ。
愛は「自立」から生まれ、依存は「未熟さ」から生まれる。
愛は「相手を自由にする」力であり、依存は「相手を支配する」力である。
加藤は、依存的な関係性の苦しさについて、数多くの実例を提示してきた。
たとえば、ある女性が恋人との関係に悩んでいた。彼は優しく、よく面倒を見てくれる。しかし、彼女が一人で何かをしようとすると、彼は突然機嫌を損ねる。「君が一人で何かを楽しむなんて、寂しいよ」と言っては、彼女の行動を制限し始める。
最初は「愛されている」と感じていた彼女も、次第に息苦しさを覚えた。自由を失い、自分を失っていった。
加藤はこのような関係を「疑似愛」と呼ぶ。
「依存的な愛は、相手を利用しているに過ぎない。相手の存在は、自分の不安を取り除くための“薬”でしかない」
このような関係は、やがて相互に疲弊し、破綻する運命にある。なぜなら、それは「愛すること」ではなく「吸いつくこと」だからだ。
加藤は、依存的な人々の心理的な未熟さに着目している。依存の根底には、しばしば**「幼児的な愛への回帰」**がある。
幼少期に十分に親からの愛情を得られなかった人は、大人になってからもその愛を他者に求め続ける。恋人、配偶者、友人、上司…。それはまるで、欠けた心を他者で埋めようとする試みである。
加藤はこう語る。
「心理的に成熟した人は、他人に自分の生存を委ねない。成熟とは、“ひとりでいられる能力”である」
つまり、依存から脱却するには、まず「自分の寂しさ」に気づき、それを他者で埋めようとするのをやめなければならない。
依存関係は一方通行ではない。しばしば「依存する人」と「依存される人」は引き合う。加藤はこの関係性を「共依存」と呼ぶ。
たとえば、常に他人の面倒を見ずにはいられない人がいる。彼らは一見、親切で思いやりにあふれているように見える。しかし、その内側には「必要とされなければ不安になる」という感情がある。
彼らは、依存してくれる相手を通して自己価値を確認しようとしている。そのため、相手が自立しようとすると、無意識にそれを妨げる。
「共依存の人々は、お互いを縛り合い、自由を奪い合う。そしてその関係を“愛”と呼ぶ」
加藤はこのように厳しく批判する。
依存関係にあるとき、人は相手のコントロールや束縛さえも「愛されている証拠」と誤解する。
加藤はこれを「母性への回帰願望」と関連づける。母親の庇護下で、すべてを委ねていればよかった時代。その記憶の名残が、大人になってからの「愛の幻想」として立ち上がる。
しかし、真の愛はそのようなものではない。
それができないとき、人は愛ではなく「不安の制御」に動いているに過ぎない。
依存的な人の最大の恐れは「孤独」である。しかし加藤は、「孤独を受け入れたとき、人は自由になる」と語る。
彼はしばしば、アメリカの心理学者エーリッヒ・フロムの言葉を引用する。
「愛は、二つの完全な個人が互いに出会い、影響し合うことで生まれる創造的行為である」
つまり、「私は私」「あなたはあなた」という二人の自立した存在が、お互いを尊重し合うところに、初めて本当の愛が育まれる。
加藤が依存からの脱却のために強調するのは、「自分の感情に責任を持つ」ということである。
このような内省と対話こそが、人を依存から解放する鍵である。そして、そうして自分と向き合った人間こそが、他人に対して「支配」ではなく「共存」の姿勢で関われるようになる。
「あなたのためを思って言っているのよ」
「心配だから、何でも話して」
「そんな服着て……みっともないからやめなさい」
こうした言葉は、親の“善意”として語られることが多い。しかし、加藤諦三はそこに**「支配」と「自己愛の投影」**が混ざっている危険性を指摘する。
「親の言う“あなたのため”とは、たいていの場合、“自分の安心のため”である」
親が子どもを思い通りにコントロールしようとするとき、そこにあるのは無償の愛ではない。むしろ、「自分が望むような子どもでいてくれなければ、私は満たされない」という、条件付きの愛である。
加藤は、「条件付きの愛」が子どもの自己肯定感を破壊すると語る。
ある青年は、小さいころから「いい子」であり続けた。勉強もでき、親の言いつけは決して破らなかった。しかし、大学生になってから、極度の無気力と無価値感に襲われ、カウンセリングを受けるようになった。
彼の心の中には、「親に褒められなければ、価値がない」という信念が根づいていた。愛とは“条件”をクリアしたときにもらえる「報酬」のようなものであり、自分が素のままで愛されることなど、一度もなかったのだ。
加藤はこう述べる。
「親に愛されるために“演技”をして育った子は、やがて他人の前でも“自分でない誰か”になって生きるしかなくなる」
日本社会に特有の家庭構造として、加藤がしばしば批判するのが「過干渉な母親」と「感情表現をしない父親」の組み合わせである。
母親は、子どもに対して常に干渉し、「ちゃんと見てるからね」「いつでも守ってあげる」と口にする。表面上は“愛情深い”ように見えるが、実際には子どもの自立を許さない依存的態度である。
一方、父親は仕事に忙殺され、家庭内では無口で存在感が希薄。子どもは母の過干渉と、父の沈黙という「圧力と空白」の間で育つ。ここに、子どもは**「愛とは不自由なものだ」「自分を出してはいけない」**という歪んだ信念を身につける。
加藤は言う。
「親の“愛”が、子どもの自我を押しつぶしてはいないかを、親自身が問い直さなければならない」
加藤の著書には、「自分は幸せな家庭に育った」と語りながら、対人関係で極度の不安定さを抱える人々がしばしば登場する。
彼らはこう言う。「両親は仲が良くて、何不自由なかった」「厳しく育てられたけど、それが愛だったと思う」と。
だが、内面を深く探っていくと、「自分の感情を出すと叱られた」「いつも親の期待に応えなければならなかった」という体験が浮かび上がる。
「“愛された記憶”と、“本当に愛されていたという実感”は別のものである」
― 加藤諦三
愛されていた“はず”という記憶は、しばしば親を責めたくないという無意識の自己防衛に過ぎない。しかし、その抑圧が大人になってからの人間関係をひずませる。
加藤の著作には、母親との関係に苦しむ女性の相談が多く登場する。典型的な例は、「母がいつもかわいそうだった。だから私は母の期待に応えなきゃと思ってきた」というパターン。
彼女たちは自分の人生を“母のため”に捧げ、自己を抑圧して生きてきた。しかし、自分が結婚したり、母の影響から離れようとすると、激しい罪悪感と不安に襲われる。
加藤はそれを「母との共依存」と呼ぶ。
「本当の愛は、相手の人生を自分のものにしようとしない。
親が子どもの人生を“自分の生き直し”に使おうとした瞬間、それは愛ではなく、支配である」
加藤が深く掘り下げるのは、親自身が「心の空白」を抱えたまま親になっているという事実だ。
たとえば、自分の親から十分な愛を得られず育った母親は、子どもに自分の欠落を埋めさせようとする。「あなたがいなきゃ私の人生は無意味」と言ってしまう。その言葉は甘美である一方で、子どもに重い“情緒的責任”を負わせる。
「親が満たされていないとき、その欠落は子どもに投影される。
そして子どもは、自分が親を救わねばならないという幻想にとらわれる」
― 加藤諦三
加藤は、「親を責めることから始めてもいい」と言う。親を“否定”することではなく、親との関係にあった苦しみを認めることが、自立への第一歩だからだ。
こうした記憶に正直になること。そこから、自分自身の感情と価値観を取り戻していくこと。加藤はそれを「愛の再教育」と表現する。
愛は、親から無条件にもらえるものであるはずだった。しかし、もしそれが叶わなかったのなら、私たちは大人になってから、自分で自分を愛する方法を学ぶしかない。
加藤は、愛に飢えた人ほど、まず自分に問いかけるべきだと説く。
このような問いの中で、自分自身の“心の親”となる作業を少しずつ進める。それが、本当の意味で人を愛する準備であり、癒しのプロセスである。
加藤諦三は、恋愛における最大の錯覚についてこう語っている。
「多くの人は“その人”を愛しているのではなく、“その人を通じて見たい自分”を愛している」
恋に落ちる瞬間、人は相手を理想化する。いや、むしろ、自分の欠けた部分を相手が埋めてくれるという幻想に取り憑かれる。そしてその幻想が、恋の情熱をかき立てる。
たとえば、自分に自信がない人は、自信に満ちた相手に惹かれる。けれどそれは、彼自身の「自信のなさ」を補完してくれそうな“投影対象”にすぎない。
加藤はこの現象を「心理的投影の恋」と呼び、真の愛とは対極にあると明言する。
恋愛の初期に起こる強烈な吸引力。その多くは、似たような心の傷を持つ者同士の共鳴によって起こっている。
たとえば、親に認められなかったという傷を持つ人同士が惹かれ合い、「あなたなら分かってくれる気がする」と無意識に期待する。しかし、心の奥底にあるものは「救ってほしい」という依存的欲望であり、「愛する」ことではない。
加藤は警告する。
「人は、相手に自分の傷を癒してもらおうとして恋に落ちる。しかし、その傷は自分で癒すしかない」
恋愛が悲劇に変わるのは、自分の空白を埋めてくれるはずだった相手が、それを埋めきれない現実に直面したときだ。
恋愛が始まるのは「錯覚」からかもしれない。しかし、結婚は「現実」である。
加藤はこう述べる。
「結婚とは、幻想の崩壊と、それでもなお相手を尊重するという決意の積み重ねである」
恋愛期には見えなかった相手の弱さ、欠点、自分とは異なる価値観が、結婚生活では次々と明るみに出る。そしてそのとき、「この人、こんな人だったの?」と失望する。
だが、それこそが本当の愛の始まりである。
愛とは、幻想を捨てたあとに残った“現実の相手”をどう受け入れるかにかかっている。
加藤諦三は、結婚を「自己成長の場」として捉えるべきだと繰り返し述べている。
恋愛で得ようとした“癒し”が叶わないとき、人は初めて「自分の傷」と真正面から向き合うことになる。
こうした誤解や期待を見つめ直し、自分の感情の責任を引き受けていくこと。加藤はそれを「愛の成熟」と呼ぶ。
加藤はフロイトやボウルビィなどの愛着理論にも精通しながら、**感情の分化(differentiation of self)**が愛における重要な指標だと説く。
これは、自分の感情と相手の感情を切り分けて理解し、反応する力のことである。たとえば、相手が不機嫌でも「それは相手の問題であり、自分のせいではない」と冷静に受け止められること。
未熟な愛は、「相手が怒っている=自分が嫌われている」と受け止め、すぐに反応する。成熟した愛は、相手の感情に飲み込まれず、それでもなお穏やかに関わろうとする。
加藤は、「結婚生活の本質は“会話”ではなく“沈黙”にある」と語っている。
愛とは、言葉を超えて伝わる“態度”であり、“空気”である。何も語らなくても、そばにいて安心できる相手。それが「本当に愛し合っている夫婦」の姿である。
逆に、言葉に頼りすぎる関係は、やがて言葉で傷つけ合うようになる。沈黙の時間が苦痛でしかない関係には、根底に「不安」と「確認欲求」が流れている。
「あなたは、相手と一緒に沈黙の中でいられますか?」
それが、愛の成熟度を示す一つの指標になる。
恋愛感情は、時間とともに必ず薄れていく。だが、加藤はそれを否定的には見ていない。むしろ、そこからが愛の始まりだと説く。
「恋愛は自然に始まる。だが、愛は“意志”によって維持される」
日々、相手のありのままを受け入れ、敬意を払い、小さなことで感謝する。そうした行為の“選択”の積み重ねが、感情を超えた愛をつくる。
つまり、愛とは「するもの」であって、「感じるもの」ではない。
結婚生活において「愛が冷めた」と感じるとき、それは愛が終わったのではない。むしろ、「正しい愛し方」を学ぶべき時期が来たというサインである。
加藤は、「愛とは技術である」と述べる。
そしてその技術は、「聴く」「待つ」「許す」「放っておく」「必要なときには助ける」といった、成熟した関わり方の実践にある。
恋愛や結婚で挫折を経験した人は、しばしば「自分には愛する力がないのでは」と思い込む。しかし加藤はそれを、「むしろ愛の入口に立った証拠だ」と肯定する。
幻想が砕け、痛みを味わい、自分の未熟さを知る——
その先にしか、誰かを本当に愛することは存在しない。
「こんなに尽くしているのに、なぜ分かってくれないの?」
「あなたのためを思ってやったのに、どうして感謝しないの?」
こうした言葉を、私たちは恋人や家族、友人との関係の中で何度も口にしてしまう。自分がしたことに対して“見返り”がないとき、人は裏切られたような気持ちになる。
しかし、加藤諦三はこの心理こそが、「愛」を「取引」にしてしまう最大の原因であると語る。
「見返りを求めるとき、そこに愛はない。あるのは“期待”であり、“操作”である」
本当の愛とは、**“与えること自体に満足を感じる態度”**である。
多くの人が「私は見返りなど求めていない」と言う。だが、加藤はその言葉の背後にある**「承認欲求」**を見逃さない。
たとえば、恋人に献身的に尽くす女性。食事を作り、身の回りの世話を焼き、常に彼のスケジュールを気にかける。彼女は「私は彼を心から愛しているから」と語る。
しかし、もし彼がその愛に十分応えてくれないとき、彼女は深く傷つき、あるいは怒りさえ覚える。
そのとき、加藤はこう問うだろう。
「あなたは本当に“彼のため”に尽くしていたのですか?
それとも、“あなたを必要としてくれる彼”が欲しかったのですか?」
この問いは、愛の動機を見つめ直す痛烈な指摘である。
加藤は、見返りを求めてしまう背景には自己肯定感の欠如があるとする。
自分の価値を自ら感じられない人は、誰かに「ありがとう」と言われることでしか自分を肯定できない。
したがって、その言葉や態度が返ってこなければ、自分の存在価値までが揺らいでしまう。
「見返りを求める人ほど、“自分の価値”を他人の反応によって決めている」
― 加藤諦三
真の愛には、このような「自己証明の道具」としての他者利用があってはならない。愛するとは、自分の価値を相手によって確認することではなく、相手をそのまま大切に思う態度である。
加藤は、「愛には見返りがないのが自然だ」と述べる。
しかし現実には、愛という名のもとに多くの支配が行われている。
親が子に「あなたのためを思って」と言って将来を強制する。
恋人が「こんなに愛しているのに」と言って相手の自由を制限する。
これらは一見「与える愛」のように見えるが、実態は「自分の不安を他人の行動でコントロールしようとする支配」である。
与える愛は、相手の自立を助ける。
支配する愛は、相手の自由を奪う。
加藤は、この二つの違いを峻別し、後者を「愛の仮面をかぶったエゴ」として断罪する。
「見返りを求めない愛」を実践するには、まず自分の心の中にある**“見返りへの渇望”**を素直に認めなければならない。
これらの欲望は、悪ではない。人間なら誰しも持っているものだ。ただし、それを**「満たすために相手を愛する」という順序にしてしまうと、愛はすぐに“操作”に変わってしまう**。
加藤はこう述べている。
「まず自分を愛すること。そのとき、人を愛することが“欲望”から“喜び”に変わる」
つまり、自分の価値を自分で受け入れている人だけが、相手に見返りを求めずにいられる。
加藤の著作には、無償の愛に触れて変わった人のエピソードがしばしば登場する。
ある女性は、重度の障がいを抱える夫を10年以上介護していた。夫は次第に言葉も発せず、彼女の名前すら忘れるようになった。
それでも彼女は、彼の手を取り、笑顔で語りかける。
「夫が私を覚えていなくてもいい。私はこの人を愛している。
それだけで、私は毎日満たされています」
この女性は、もはや**「愛されること」によって自分を証明する必要がなかった**。
彼女は、愛することで自分を生きていたのである。
加藤はこのような在り方こそが、「成熟した愛の完成形」だと説く。
見返りを求める人は、他者に依存する。
見返りを求めない人は、自らの孤独と対峙し、それを引き受けた人である。
加藤は言う。
「一人でいることにくつろげる人だけが、他人と健康的な関係を築ける」
自分一人で静かにいられる時間、自分と向き合える心の余白。そこに立脚してこそ、人は「奪う愛」から「与える愛」へと変わっていける。
見返りを求めない愛は、時に「損」や「無力感」を伴うこともあるかもしれない。
しかし、加藤はこう締めくくる。
「与える愛は、最も深く、最も強く、最も長続きする愛である。
それは、相手のためだけでなく、実は自分自身をも救う愛である」
自分の中にある静かな力、温かな光としての愛。
それは、誰かを通して“もらう”ものではなく、自分の内側から“湧き出す”ものなのだ。
加藤諦三が一貫して主張してきたのは、「愛とは感情ではなく能力である」という立場です。
「愛するとは、心の成熟した人間にだけ可能な“行為”であり、“態度”である」
― 加藤諦三『愛と心理学』
この考え方は、エーリッヒ・フロムの『愛するということ』の影響を強く受けています。フロムは「愛とは芸術と同じく、訓練しなければならない能力である」と述べましたが、加藤もまた、愛を**“何もしなくても自然にできるもの”とは捉えない**のです。
愛する力とは、自己を見つめ、自立し、感情を整理し、他者を尊重し続けることができる、高度な内面的成熟の表れであるとされます。
愛されることに必死になっているとき、人は「子どもの心」のままです。愛とは本来、自立した人格から生まれるものであり、加藤はこう述べています。
「成熟した人間は、愛される必要がない。なぜなら、すでに“愛する喜び”を知っているからだ」
この言葉は、多くの人にとって逆説的に聞こえるかもしれません。「愛されたい」という欲望こそが、他者との関係を壊し、愛する力を失わせるのです。
加藤は、“人を愛せる人”とはすなわち、“自分の内なる空白を他人で埋めようとしない人”であると定義します。
愛する力を育むためには、まず**自己受容(セルフ・アクセプタンス)**が不可欠です。
加藤は、愛する力を持った人の特徴として以下のような要素を挙げています。
これらはすべて、「自分をそのまま肯定できる人」に共通する性質です。
つまり、愛するとは、自己を信頼し、他者に対しても誠実に関われる人の能力なのです。
加藤は、愛を「成長を促す行為」としても定義しています。
「真の愛は、相手を“今のまま”でいさせることではない。
相手の中にある可能性を信じ、それを育てようとするものである」
恋愛においても、結婚においても、友情においても――
本当に人を愛している人は、その人がその人らしく成長することを喜びとするのです。
反対に、未成熟な人は、相手を“自分にとって都合のいい存在”にしようとし、支配や依存へと陥ってしまう。
加藤の提唱する「愛する力」とは、相手の自由と成長を認め、それを支えながらもコントロールしない態度なのです。
加藤諦三が語る、愛の成熟度を測る具体的な指標の一つに「怒りの扱い方」があります。
「愛する力がある人は、簡単に怒らない。
怒りを自分の心の中で処理し、相手にぶつけない。
それができる人だけが、穏やかに愛を持続できる」
愛が長続きしない人の多くは、自分の不安や期待が裏切られたときに“怒り”としてそれを表現してしまう。それは、自己コントロールができていない=愛する力がまだ未成熟であるという証拠です。
加藤は、“孤独を恐れる人は、愛せない”という視点を繰り返し述べています。
孤独に耐えられない人は、常に誰かと一緒にいることを求め、愛を「依存」の手段として使ってしまいます。
反対に、「孤独を選び取れる人こそが、誰かと対等に関係を築ける人」だと加藤は説きます。
「ひとりでいることに耐えられる人間が、真に人を愛することができる」
― 加藤諦三『孤独と愛』
ここで、加藤氏の著作から、愛する力にまつわる名言をいくつか紹介しておきましょう。
これらの言葉には、“愛すること”が他人に何かをしてあげることではなく、むしろ“相手と共にいる自分”を誠実に保つ力であることが端的に表れています。
加藤は、現代人の多くが「どうすれば愛されるか?」という視点ばかりを重視していることに危機感を抱いています。
こうした行動の根底にあるのは、「愛されなければ意味がない」という価値観です。
しかし加藤は、それをまっすぐに否定します。
「真に愛する力がある人は、すでに“愛すること自体”に価値を見出している」
愛する人であろうとすること。
それが、人間関係だけでなく、自分自身の人生をも豊かにしていく道なのです。
佳代さん(仮名・42歳)は、かつて「いい妻」「いい母」「いい娘」であろうと必死だった。
朝は家族のために弁当を作り、義母の世話もこなし、職場でも「いつも明るく親切な人」として振る舞い続けていた。しかしある日、過呼吸の発作で倒れ、仕事も家庭も維持できなくなった。
カウンセリングで彼女が初めて語った言葉はこうだった。
「私は誰かに“あなたはそのままでいい”って言ってほしかったんです。でも、そのために“いい人”を演じてきた」
彼女は「愛されたい」がために尽くしてきたが、それは“本当の自分”で愛されることではなかった。加藤諦三の著書に出会い、彼女は自分に問うようになった。
「私は本当に“愛した”ことがあったのだろうか。
それとも、愛されるために“操作していた”だけだったのだろうか」
そこから、彼女は演じるのをやめた。疲れたときは「今日は何もしたくない」と言うようになった。子どもに「母さんも人間なんだよ」と笑いながら話すようになった。
そしてこう語った。
「愛されたい、じゃなくて、自分の中から湧いてくる愛を信じようと思えるようになりました。
そうしたら、なんだか生きるのがラクになったんです」
大輔さん(仮名・28歳)は、幼少期から父親との関係に苦しんでいた。
父は威圧的で、感情的な人だった。怒鳴られ、否定され、褒められた記憶はない。そんな父を「愛せるはずがない」と思いながらも、彼は心のどこかで「父に認められたい」という思いを持ち続けていた。
彼の転機は、加藤諦三の『自分に気づく心理学』を読んだことだった。
その中で語られていた言葉が、胸に刺さったという。
「自分が愛されなかったからといって、人を愛さないままでいいのか。
それとも、自分の代でその“愛の連鎖”を変えるのか」
それ以来、大輔さんは「父を愛そう」と決めたわけではない。
ただ、父を憎むことをやめ、「父もまた不器用なだけだった」と理解しようとした。
誕生日には、短いメッセージを送り続けた。
時間はかかったが、ある日、父からこんな言葉が返ってきた。
「おまえは強いな。自分にできなかったことを、ちゃんとやってる」
その瞬間、大輔さんは泣いた。愛するというのは、赦すことでも、期待することでもなく、**「自分の心に向き合いながら、関係性をあきらめないこと」**だと知ったという。
村田さん(仮名・70代)は、認知症の妻の介護を10年続けている。
妻は彼の名前すら忘れ、毎日を不安と混乱の中で過ごしていた。
それでも村田さんは、朝食を作り、散歩に付き添い、入浴を手伝う。
彼にとって、介護は「義務」ではなく、「日課」であり、そして「祈り」のような時間だった。
「もう妻は、私を覚えていません。でも私は、あの人の記憶になくても、愛しているんです」
見返りは何もない。言葉も通じない。
けれど村田さんは穏やかにこう語る。
「愛することって、自分のためでもあるんですよ。
“愛している”と感じるとき、自分が自分でいられる気がするんです」
加藤が語る「与えることによって自分が救われる」という真実が、そこにはあった。
陽子さん(仮名・45歳)は、長年の不安定な精神状態と家庭環境により、シングルマザーとして育てていた息子を手放した経験がある。児童相談所に預けざるを得なかったその決断は、彼女に深い罪悪感と自己否定を与えた。
加藤諦三の言葉――
「愛するとは、自分ができなかったことを悔やむのではなく、“今”できることを選ぶこと」
――に背中を押され、彼女は地域の児童福祉施設でボランティアを始めた。
彼女は語る。
「私は、もう自分の子には愛を届けられない。でも、“今目の前にいる子ども”にできることがある。
そう思ったとき、私はようやく“母としての自分”を許せた気がしたんです」
愛は、過去に縛られず、今この瞬間から始められる選択であることを、彼女の生き方が証明していた。
俊介さん(仮名・35歳)は、長年「人の役に立たなければ自分には存在価値がない」と思っていた。職場でも家庭でも、他人の要求に過剰に応え続け、心はいつもすり減っていた。
あるとき彼は心療内科に通いながら、加藤諦三の『生きる力が湧いてくる本』を読んだ。そこには、こう書かれていた。
「愛とは、誰かの役に立つことではない。ただ、その人を思い、その人の幸せを願える自分を認めることだ」
俊介さんは、少しずつ“役に立つ”ことから解放され始めた。
やがて、知的障がいを持つ子どもたちの施設で、無償の支援活動を始めるようになった。
そこで出会った子どもたちは、彼を「役に立つ人」としてではなく、「そばにいてくれる人」として慕ってくれた。
俊介さんは言う。
「何かが“できる自分”じゃなくても、愛せるってことに気づいた。
それは、こんなに自由で、こんなに温かいことなんですね」
この章で紹介した人々は皆、「愛されたい」から「愛したい」へと意識を転換させた人たちです。
加藤諦三が何十年にもわたり語り続けた「愛する力」は、特別な人だけが持つ才能ではありません。**それは誰の中にもあり、目覚めを待っている「生きる力」**なのです。
加藤諦三は、愛を単なる感情や行為として捉えるのではなく、人間が人間として“生きる意味”を持つための根源的な力であると定義してきました。
「人を本当に愛することができたとき、人は自分がこの世界に存在してよいのだと実感する」
― 加藤諦三『生きる意味が見つかるとき』
人生の苦しみや空虚さは、自分が誰かに必要とされていないと感じるときに強くなる。
だが、それを癒すのは「誰かに愛されること」ではなく、「誰かを愛することができる自分」を信じられる瞬間なのです。
愛するという行為には、対象が必要に見える。しかし、加藤はそこに**主体としての“自分自身の在り方”**が関わっていると述べています。
つまり、愛することそのものが“自己の安定”であり“アイデンティティ”であると、加藤は繰り返し語るのです。
多くの人は、「愛とは二人の関係の中で育まれるもの」と考えます。しかし、加藤の思想はそれを越えています。
「愛とは“誰と一緒にいるか”ではなく、“どのように自分であるか”で決まる」
― 加藤諦三
つまり、愛とは“相手”に依存せず、**「自分がどれだけ他者を大切に思える状態か」**によって決まるのです。
この考え方は、自己成長にも繋がります。愛を通して人は「他者中心」から「自己中心性の克服」へと向かい、人生をより豊かにしていく。
愛することは時に、報われないものでもあります。
誤解されることも、裏切られることもある。
それでもなお、「それでも愛する」という決意が、人を“強く”するのではなく、“深く”する。
加藤はこう述べています。
「強く生きるとは、失敗しないことではない。
傷つきながら、それでも人を信じ続けようとすることだ」
愛することをあきらめたとき、人は心を閉ざすことで“安全”を確保します。
しかしそれは同時に、“生きることへの実感”も失わせていく。
逆に、愛することを選び続ける人は、人生の意味と温もりに触れ続けられる。
ここまでの章で描かれてきた人々――
尽くすことをやめて自分を取り戻した女性、
愛されなかった父と和解した青年、
言葉の通じない配偶者を介護し続けた夫、
そして過去の過ちから他者への愛に転化した母。
彼らに共通するのは、「愛されること」よりも「愛すること」を選んだという点です。
そしてその選択が、彼らの「生きる力」そのものとなっていった。
愛することは、ただの美徳ではありません。
それは、**自分を支え、人生を形づくる“選択の力”**なのです。
加藤諦三の思想を総括すると、愛することとは「生きる」ことそのものです。
この一連のプロセスこそが、人間であるという証であり、生きる価値そのものなのです。
そして、その道に終わりはありません。
愛は技術であり、選択であり、修練です。
何度でも立ち返り、やり直すことができる。
「人間は、どれだけ傷ついても、愛することを学び直すことで、また立ち上がることができる」
この言葉をもって、加藤諦三の“愛するとはどういうことか”という問いに対する答えを、私たちは胸に刻むことができるのです。
このエッセイは、「人を愛するとは」という問いから始まり、加藤諦三の思想に導かれながら、
**「愛することを通じて、自分が癒され、生き直されていく」**という道を描いてきました。
あなたが誰かを本気で愛し、愛することに悩み、苦しみ、それでもなお愛し続けようとするとき、
そのすべての葛藤と希望が、あなた自身の人生の糧となっていきます。
どうか、愛することをあきらめないでください。
それは、あなたが「人として生きる」という、最も誇らしい行為なのです
ショパン・マリアージュは貴方が求める条件や相手に対する期待を明確化し、その基準に基づいたマッチングを行います。これにより、結婚生活の基盤となる相性の良い関係性を築くためのスタートを支援します。また、結婚に関するサポートや教育を通じて健全なパートナーシップを築くためのスキルや知識を提供します。
あなたに合った結婚相談所が
見つかります!
お気軽に連盟スタッフにご相談ください。
あなたに合った結婚相談所をご紹介いたします。
活動がしやすい環境がとても大切です。また担当者との相性も重要なポイント。ぜひあなたに合った結婚相談所を見つけてください。