35歳女性ご成婚💖四條畷から滋賀 長浜へ
結婚相談所レオン(大阪府)
2025.03.30
ショパン・マリアージュ
―「愛されること」至上主義と「交換価値」としての人間関係
現代において「愛」という言葉は過剰に使用される一方で、その内実は驚くほど空虚である。SNSでは「愛してる」「大好き」が日常的に飛び交い、恋愛リアリティショーは瞬間的な情熱を商品化する。しかしフロムはこうした傾向に警鐘を鳴らす。彼によれば、多くの人が愛を「得る」こと、つまり愛されることにばかり関心があり、自らが愛する主体であるという視点が欠如している。
フロムは次のように述べている:
“People think that to love is simple, but that to find the right object to love—or to be loved by—is difficult. This attitude has several reasons rooted in the development of modern society.”
― The Art of Loving より
この「愛の即席主義」は、恋愛を「消費」として捉える現代人の心理的傾向と深く関係している。誰かと深く関わるよりも、短期的な快楽や表面的な魅力に依存する。「マッチングアプリで手軽に理想の相手を見つける」「良い写真を投稿して“いいね”を稼ぐ」といった文化は、愛を関係性ではなく“取引”として理解する土壌を作り出している。
フロムは「愛されること」ばかりに焦点を当てる人間は、次第に自己を「他者の評価」に明け渡すようになると指摘する。この状態は、まさにナルシシズムと自己疎外の温床である。魅力的な外見、肩書き、ステータスなどが「愛されるための武器」とされる社会では、自己の内面の深まりよりも、表層的なブランド価値が重視されるようになる。
こうした状況は、心理学者ダグラス・ユーヴァンによる現代恋愛の分析とも一致している。彼は、現代の恋愛が「相互的な探求」ではなく、「自己のイメージの補完」に堕しているとし、ロマンティックラブの空洞化を批判する(Youvan, 2025)。
フロムは愛の衰退を資本主義社会の価値体系と密接に結びつけている。市場経済が人間関係にまで浸透し、「人間」までもが商品と化す世界では、恋愛もまた「売買」の論理に支配される。魅力、性格、職業、年収……それらが**「価値のある人間」を測るスケール**として用いられ、愛はその取引の「報酬」に成り下がる。
この視点を深掘りするには、R. M. Ryckman (1989)の『Fromm’s Humanistic Psychoanalysis』が有益である。彼はフロムの理論を次のように要約する:
“Fromm maintains that modern capitalism fosters a type of personality which is unable to love, because it emphasizes success, conformity, and performance rather than growth, authenticity, and connection.”
つまり、競争と効率を重視する社会が、人間関係に「真の関与」を不可能にしているというのである。
現代社会の最大の特徴の一つは、「つながり」の形が根本的に変化している点にある。SNS、マッチングアプリ、ビデオチャットなど、通信技術の発達により、我々は物理的な距離を超えて人と接することが可能になった。しかし同時に、それは**「身体性」「沈黙」「間」など、愛にとって不可欠な要素を失わせた**。
フロムが強調する「注意深さ(concentration)」や「思いやり(care)」といった愛の基本要素は、即応性と断片的対話を重視するネット空間ではほとんど実現できない。実際、Kevin Smith (2020)は、フロムの理論を用いて「愛がいかに存在論的実践であるか」を明らかにしている。つまり、愛とは“今ここ”において他者とともに在る経験であり、それはデジタル空間では非常に困難である。
Yさん(28歳・女性)は、フォロワー数2万人を抱えるインフルエンサーでありながら、慢性的な孤独感を抱えていた。付き合う男性は彼女の「イメージ」に惹かれるが、深く関わるほどに関係が破綻する。ある日、彼女はセラピストにこう言った。
「私は愛されているはずなのに、どうしてこんなに空しいんでしょうか?」
これはまさに、「評価される存在」としての自分と、「存在そのもの」としての自分の断絶に起因する苦しみである。Yさんが求めていたのは、演じられたキャラを愛する人ではなく、無条件に“存在”を認めてくれる相手だったのだ。
このような実例は、現代の多くの人が抱える「愛の苦悩」の縮図である。
では、このような現代社会において、私たちはどのようにして「愛する」ことを学び直せるのだろうか。フロムはこう述べている。
“To love means to commit oneself without guarantee, to give oneself completely in the hope that our love will produce love in the loved person.”
保証もなく、成果も見えないかもしれない。にもかかわらず、「愛する」という行為に身を投じること――それこそが、人間が自由な主体として生きるための唯一の道なのだ。
この章の結論として強調したいのは、「愛の誤謬」は、社会やテクノロジーによって作られたのではなく、私たち自身の在り方がそれを許しているという点である。
フロムの言葉を借りれば、愛は「パッシブな感情」ではなく、「能動的な力」だ。それは文化的・社会的構造の影響を受けつつも、最終的には**一人ひとりが自己の存在を引き受け、実践を通して身につけるべき“技術”**である。
次章では、この「技術としての愛」がどのように構成されているのか――特にフロムが分類した「愛の四類型(母性愛・父性愛・兄弟愛・自己愛)」について、より詳細に論じていく。
エーリッヒ・フロムの愛の理論が独自性を持つのは、彼が「愛とは単一の感情ではなく、複数のかたちを持つ実践行為である」と主張した点にある。つまり、私たちが「愛」と呼ぶものは実は多様な関係性の形態であり、それぞれに異なる動機、表現、課題が存在する。
フロムは基本的な愛の形として、母性愛(motherly love)、父性愛(fatherly love)、兄弟愛(brotherly love)、**自己愛(self-love)**の4つを取り上げ、それらが「成熟した愛」へと至るための基礎構造をなすと説いた(Fromm, 2024)。
母性愛とは、最も根源的な愛の形式であり、フロムによれば「無条件で、見返りを求めない愛」の典型である。赤ん坊は生まれてすぐ、何かを「与える」ことができない存在であるにもかかわらず、母親は本能的に彼を愛し、世話し、命を守る。
“Motherly love is unconditional affirmation of the child’s life and needs.”
― The Art of Loving
ここで注目すべきは、**「存在すること自体を肯定する愛」**という母性愛の本質である。現代社会において、これは希薄になりつつある。「条件付きの愛」、つまり「成績が良ければ褒める」「いい子にしていれば愛される」といった行動主義的な育児法が支配的になり、無条件の受容が見失われがちだ。
一人のシングルマザーが、自閉症スペクトラムを持つ息子の子育てに悩んでいた。周囲は「治す」ことばかりに注目したが、彼女は「この子はこのままで尊い」と信じ、ありのままの姿を受け入れる選択をした。その後、息子は人との信頼関係を築き始めるようになる。無条件の肯定は、自己肯定感という「根っこ」を育てる土壌であることを、この母親は身をもって証明していた。
一方、父性愛は条件付きで、指導と期待を含む愛である。父の愛は子に対して「あるべき姿」を示し、社会性や道徳性、規律を育てる。
“Fatherly love is conditional love. Its principle is: I love you because you fulfill my expectations, because you do your duty.”
― The Art of Loving
フロムは、母性愛が「安心」と「帰属」を与えるのに対し、父性愛は「自立」へ導く力であると分析する。つまり、愛の中には必ずしも「甘さ」だけでなく、「厳しさ」と「導き」も含まれるのだ。
ある青年が父親と15年間も断絶していた。父は「もっと努力しろ」「成功しなければ価値がない」と息子に言い続け、彼を傷つけた。しかし晩年、父はこう告白する。「私はお前の将来を守りたかっただけだ。あの時、どう愛を伝えていいか分からなかった。」この瞬間、父性愛の中にあった「不器用な愛」が、時間を越えて伝わるのである。
フロムはこうした二つの愛を統合して「成熟した大人の愛」が形成されるとした(Ryckman, 1989)。
兄弟愛は、フロムがもっとも「普遍的で社会的な愛」として重視した愛の形態である。それは血縁的な兄弟に限らず、すべての人間を対象とする愛、つまり「隣人愛」や「人類愛」を意味する。
“Brotherly love is love between equals: but even as equals we are all in need of help.”
― The Art of Loving
この愛は、共感(empathy)と連帯(solidarity)を核に持ち、他者を自分と等しい存在として受け入れる。現代において分断と格差が拡大する中、兄弟愛は社会的な癒しの根源としてますます必要とされている。
2011年の東日本大震災では、被災地で物資を分け合い、見ず知らずの人々が支え合う姿が各地で見られた。「自分の家は壊れなかったから、避難所の人に布団を持って行った」と語る一人の主婦の行動は、兄弟愛の純粋な発露である。
自己愛というと、自己中心的でナルシスティックな態度を想起しがちだが、フロムにとって自己愛は他者を愛する能力と同一線上にある。自己を愛せない人間は、他者を真に愛することもできない。
“If an individual is able to love productively, he loves himself too; if he can love only others, he cannot love at all.”
― The Art of Loving
自己愛とは、自己への敬意、誠実さ、配慮、そして成長への意志であり、これは自己責任や自己管理とはまったく異なる次元のものである。
長年、自己肯定感の低さからうつに悩んでいた女性が、カウンセリングを通して「自分に優しくする」ことを学び始めた。彼女は初めて「自分を責めずに朝起きること」に成功し、涙を流したという。この体験は、愛の最初の一歩が自己への思いやりであることを示している(Smith, 2020)。
フロムの理論が示す愛の四類型は、相互に独立して存在するのではなく、**統合されてはじめて「成熟した愛」**として機能する。母のように無条件に与え、父のように導き、兄弟のように連帯し、自分自身をも敬愛する――この統合こそが、愛の完成形である。
愛することは、これら4つの異なるエネルギーを、人生の中でバランスよく使いこなす「技術」であり、それは日々の実践と自己省察の中で磨かれていく。
読者に問いたい。あなたの中には、どれだけの「母性愛」「父性愛」「兄弟愛」「自己愛」があるだろうか。どれかが過剰で、どれかが欠けてはいないだろうか。フロムの分類は、私たちが自身の愛し方を見直し、育て直すための地図として非常に有効である。
次章では、これらの愛がどのようにして**「技術」として修練されるか**を深く探っていく。
エーリッヒ・フロムの『愛するということ』を読んで、最も衝撃的な一文を挙げるなら、こうであろう:
“Love is an art, just as living is an art—if we want to learn how to love we must proceed in the same way we have to proceed if we want to learn any other art.”
― The Art of Loving
愛を技術(art)とみなすというこの見解は、現代の恋愛観とは真逆を向いている。多くの人が「自然に生まれる感情」「運命の出会い」「フィーリングの一致」として恋愛や愛情を捉えている一方で、フロムは愛を芸術や職人技と同じく“鍛錬”によって獲得すべきものとする。
ピアニストが日々指の訓練をし、大工が木材の目を読むように、愛する者もまた集中・規律・忍耐・自己超越といった基礎を身につけなければならないのだ。
フロムは、愛を修練する上で不可欠な4つの要素を挙げている。
真に誰かを愛するということは、「ここにいること」「完全に相手に注意を向けること」を意味する。しかし現代社会では、注意力はスマートフォンの通知に分断され、人間関係の対話すら「ながら行為」に侵食されている。
“To love, one must concentrate.” ― Fromm
これは瞑想的な意味合いすら含む。**「目の前の相手だけに心を置くこと」**が、愛の第一歩である。
訓練とは規律ある行為の繰り返しであり、愛もまた例外ではない。恋愛において「飽きる」「冷める」現象はしばしばあるが、それは愛が感情に依存している限り避けられない。一方、規律に裏打ちされた愛は、状況や気分に左右されず、能動的に持続される。
「すぐに愛されたい」「すぐに理解されたい」と願うのは自然な欲求であるが、愛は時間と成熟を必要とする。相手と関係を育むには、急がず、諦めず、繰り返し努力する姿勢が求められる。
愛とは相手に関心を持ち、相手の成長を願うことである。しかしそれは、「自分の孤独を癒してくれる人を求める」ような自己充足のための関係ではない。真に愛するとは、自分を超えて他者の幸福と成長を願う心である。
フロムの思想は、東洋思想、特に禅の修練方法と共通する部分が多い。禅の世界では、「悟り」は目的ではなく、“型”の反復の中で訪れる副産物とされる。茶道や書道、武道もまた、日々の稽古のなかで「心を整える」ことを重視する。
愛もまた、意識的な「型」の反復=実践が必要である。例えば、「相手を否定しない傾聴」「一日一つ感謝を伝える」「争いの際は感情を一晩寝かせる」といった行動は、小さな型だが、これを継続することで関係の質は劇的に変わる。
愛が困難な理由のひとつは、自己中心的な欲望の投影である。多くの人は、愛するというよりも「自分を満たしてくれる誰か」を探している。恋愛関係の破綻も、相手が「期待通りでなかった」と失望することから始まる。
フロムはこれを「ナルシシズムの罠」と呼ぶ。彼は愛の本質をこう定義する:
“To love means to experience another as an extension of oneself, not as a means to fulfill one’s needs.”
これは、「共に在る」ことを目的とする愛と、「自分の空白を埋める」ための依存的愛との違いである(Biancoli, 1992)。
一組の夫婦が、結婚10年目にして離婚寸前の危機に直面していた。日々の言い争い、すれ違い、互いの無関心――それはまさに「愛の技術を忘れた状態」だった。セラピストは2人に以下の3つの実践課題を課した。
毎晩3分間、黙って目を見つめ合う
日記形式で「感謝」と「怒り」を書き出し共有
週1回、「何もしない時間」を一緒に過ごす
最初はぎこちなく、反発も多かったが、数ヶ月後、2人は「初めてお互いの声を聞けた」と語った。これは、まさに愛の型と鍛錬を回復するプロセスであり、技術としての愛の成果だった(Smith, 2020)。
フロムが強調するもう一つのポイントは、「正しい相手を見つける」よりも「愛する力を育てる」ことの方が重要だという視点である。現代の多くの恋愛観は「運命の相手探し」に執着しているが、フロムはそれを痛烈に批判する。
“The main condition for the achievement of love is the overcoming of one’s narcissism.”
― The Art of Loving
つまり、「相手がどうか」よりも「自分がどう愛せるか」の方が関係の持続性を決定づけるということである(Funk & Shaw, 1982)。
「愛したい」と願うだけでは不十分である。愛とは、「練習すること」なのだ。そこには集中と規律、忍耐、そして自他を超えて他者に関心を持つ精神が必要とされる。
この章を締めくくるにあたり、フロムの言葉をもう一度引用しよう:
“Love is not a sentiment which can be easily indulged in by anyone, regardless of the level of maturity reached. It is a real achievement.”
そしてその達成には、技術としての愛の修練が不可欠である。次章では、現代社会における疎外と孤独の問題に焦点をあて、「愛する力」がいかに社会構造によって破壊され、あるいは再生されるかを探る。
エーリッヒ・フロムは精神分析の専門家であると同時に、社会思想家でもあった。彼の愛の理論は決して個人の内面だけを扱うものではなく、社会構造との関係性に根ざした深い視座を持っている。そのため、彼の思想を読み解くには、カール・マルクスとの関係性を理解する必要がある。
マルクスは資本主義の本質を「人間の労働の疎外」として捉えた。人間が生産物に自己を投影できず、自己の創造物から切り離されるこの状態を「疎外」と呼び、これこそが人間性の喪失であるとした。
フロムはこの概念を愛の領域に拡張した。つまり、資本主義は労働だけでなく、人間関係においても疎外を生じさせ、人が人を“物”として扱う傾向を生み出すと見抜いたのである(Ryckman, 1989)。
フロムの『自由からの逃走』(Escape from Freedom)では、近代社会における「自由」の概念が逆説的に人々を孤独と不安に追い込む様子が描かれている。近代は封建制度からの解放と引き換えに、“何者でもない”という不安な自由を手にした。そしてその孤独を耐えられない人々は、独裁・従属・同調といった形で「逃走」していく。
この自由と孤独のジレンマは、『愛するということ』においても再確認されている。愛することは、自立した存在同士が結びつく行為であるが、そもそも自立できない人間にとっては、愛すらも恐怖の対象になり得る。
現代社会においては、「愛されること」を目指す人々が、自己を「商品化」して提示するという現象が散見される。フロムはこれを「人格市場」(personality market)と呼び、次のように述べている:
“The social character of modern man is essentially that of an automaton. He experiences himself as a thing to be sold successfully on the market.”
― The Art of Loving
このような状況では、人間関係すら「効率」と「利得」によって測られ、深い相互理解や無償性といった愛の本質は消え失せる。人間が“道具”として扱われる限り、そこには真の愛は生まれない(Biancoli, 1992)。
A氏(35歳・男性)は、大手企業に勤めるいわゆる「成功者」だった。高年収、海外勤務経験、ブランド服。しかし彼は「自分を誰も理解してくれない」と言い、休日は人と会うことすら苦痛に感じていた。カウンセリングに通う中で彼が吐き出した一言――
「愛されるために、ずっと役に立とうとしてきた。でも誰にも“そのまま”の自分を見せたことがない。」
彼の問題は、愛の不在というよりも、“役立つ人間”としてしか価値を見出されない社会のなかで、自己を隠して生きることへの絶望だった。
これはまさにフロムが指摘する「存在ではなく、機能で評価される人間」の縮図である。
では、このような疎外された人間関係のなかで、どのようにして「愛する力」は回復され得るのだろうか?
フロムは、そのカギを**「能動的関係性(active relatedness)」**に見出した。能動的関係とは、相手を理解し、関心を持ち、共に在ることを喜ぶ関係性であり、それは商品的関係や消費的愛とはまったく異なる。
“To love is to commit oneself without guarantee, to give oneself completely in the hope that our love will produce love in the loved person.”
― The Art of Loving
この「保証なき贈与」こそが、真の愛であり、疎外の構造に亀裂を入れる最初の行為なのである。
都内で活動するホームレス支援団体では、食事提供だけでなく、対話の時間を重視している。あるボランティアはこう語った。
「“お兄ちゃん、今日も来てくれてありがとうな”って言われると、私の方が救われるんです。」
ここでは「援助する者」と「される者」という垂直的関係ではなく、水平的な兄弟愛的関係が成立している。フロム的にいえば、疎外を打破するには、こうした“非機能的な出会い”が必要なのである。
フロムは決して、愛を内面の問題に矮小化しなかった。むしろ彼は、愛する力を回復することが社会変革の原動力になると信じていた。家族、教育、職場、宗教、政治――どの領域においても、「人間を目的とし、人間を理解し、人間を愛する」精神がなければ、疎外は再生産され続ける。
Kevin Smith (2020)の論文では、愛の実践が「存在の政治」として機能する可能性について論じられており、フロムの思想がいかに現代社会に応用可能であるかが示されている。
私たちは今、かつてない情報とつながりの中で生きているが、同時にかつてない孤独と分断を感じている。フロムは、この矛盾に対して、**「愛こそが人間性の回復であり、孤独に対する唯一の処方箋である」**と喝破した。
それは即効性のある解決策ではない。しかし、「商品ではない人間として他者と向き合う」ことの積み重ねが、いつか疎外を打破し、回復への道となるのだ。
エーリッヒ・フロムは、宗教を単なる信仰の問題としてではなく、**人間の生き方全体を規定する「存在様式」**として捉えていた。そして彼は、宗教を大きく2つに分類する。
権威主義的宗教(Authoritarian religion):人間は罪深く弱い存在であり、絶対的な神の命令に服従することで救済される。愛は「従属」の形で現れる。
人間主義的宗教(Humanistic religion):人間は潜在的に善であり、内なる力を開花させることによって自己実現し、愛と理性によって世界と結びつく。
この分類において、フロムはキリスト教・仏教・ユダヤ神秘主義・スーフィズムなどの中に「人間主義的宗教」の可能性を見出した一方で、神の絶対性と人間の無力を強調する原理主義的宗教には批判的だった(Merkur, 2010)。
フロムにとって、宗教的愛(agape)は、単に神に向けられるものではない。むしろ、「神を愛する」とは、人間を深く愛することと不可分であると彼は考えた。ここでフロムは、宗教と愛の関係を「垂直の信仰」から「水平の実践」へと転換する。
“If I truly love God, I must love my brother; if I do not love my brother, I cannot love God.”
― The Art of Loving
この言葉に現れているのは、愛とは「人間の生に根ざした倫理的実践」であり、神に対する愛すらも、他者への愛によってしか証明できないという徹底した人間中心主義の立場である。
興味深いのは、フロムが**「神を必要としない宗教」**を認めていた点である。彼は『宗教の本質』(Psychoanalysis and Religion) において、宗教を「究極的関心への帰依」(an orientation toward ultimate concern)と定義した。つまり、神という超越的存在を信じなくても、人生を真摯に生きる態度があれば、それは宗教的であり得るとしたのである。
この考えは、スピノザや仏教的空観(くうがん)、さらには現代の「スピリチュアル・ノンリリジャス」な生き方と共鳴する。宗教とは形式ではなく、自己変容と他者との深い関係性に基づいた生き方なのだ(Cohen, 1990)。
あるカトリック系の医師は、日々の終わりに「祈る時間」を欠かさないという。しかしそれは、神に何かを「お願いする」時間ではなく、その日出会った人の顔を一人ずつ思い出し、「今日はあの人の話をきちんと聞けただろうか」と振り返る時間だという。
彼にとって祈りとは、**「愛の実践を省察するための内的儀式」**であり、信仰は行動の質によって支えられる。これは、フロムが提唱する「成熟した宗教性」とほぼ一致する。
フロムは愛の究極的経験を「一体化(union)」の欲求と呼ぶ。人は根源的に「孤独」を恐れ、それを癒すために他者や自然、芸術、宗教と一体化しようとする。そしてその最も成熟した形が、自由な個としての自己を保ったまま、他者や世界と一体感を得ることである。
この観点から、神を愛するという行為も、「絶対者への服従」ではなく、「存在の根源との創造的な交わり」として理解されるべきだ。ここにはフロムの「有神論的人間主義(theistic humanism)」という立場が示されている。
フロムの思想は、宗教対立を乗り越える思想的基盤にもなる。彼は、真に宗教的な人は、信条の違いよりも“人間性”と“愛”を基準に他者とつながると信じていた。
“It is not the belief in God that makes man religious; it is the devotion to life, to love, to justice.”
― Psychoanalysis and Religion
この言葉が示すのは、愛は宗教的アイデンティティを超えた普遍的実践であるというメッセージだ。
本章で見てきたように、エーリッヒ・フロムは宗教と愛の関係を「信仰」から「生き方」へと移行させた思想家であった。彼にとって神とは、恐れや服従の対象ではなく、**愛を通して他者と世界をつなげる「統一的存在」**であった。
したがって、信仰を持つ者も、信仰を持たない者も、愛するという実践を通じて「宗教的なるもの」に接近できる。この思想は、宗教の分断を超えた普遍的な倫理として、現代にも強い光を投げかけている。
次章では、ロマンティック・ラブ(恋愛)の幻想と現実に焦点を当て、フロムが提唱する「成熟した恋愛関係」のモデルを具体的に探っていく。
私たちはよく、「運命の人に出会った」「理想の相手を見つけたい」と言う。こうした言葉に象徴されるように、恋愛は“発見”の対象であって、“創造”の対象ではないという思い込みが根強い。しかしエーリッヒ・フロムにとって、それは幻想にすぎない。
“To fall in love is a serious symptom of our current culture… Real love is not falling, it is standing and growing.”
― The Art of Loving
つまり、恋に「落ちる」(fall)ことは、一時的な陶酔と自己投影の結果であり、成熟した愛とは「築く」ものである。この視点の転換こそ、恋愛における幻想を超え、愛の本質に近づく第一歩である。
ロマンティックラブ(romantic love)は、映画や文学、SNSにおいて理想化されてきた。「たった一人の運命の人」「全てを満たしてくれるパートナー」といった神話は、現代の恋愛文化にも色濃く残る。しかしフロムは、それを「所有」や「融合」の幻想と批判する。
彼はこう指摘する:
“Erotic love is exclusive and not universal; it is by its very nature short-lived if it lacks the base of brotherly love.”
― The Art of Loving
つまり、性愛や情熱だけに基づいた関係は長続きせず、それが兄弟愛(普遍的な他者への配慮)と統合されない限り、愛は消耗されるのである。
この問題に関連し、Douglas C. Youvan (2025)は、現代の恋愛が「脳内報酬系の刺激」と「自己価値の投影」によって強化されることを指摘している。これはまさに、フロムが「愛ではなく、依存や自己欺瞞」として見抜いたものだ。
消費社会において恋愛はしばしば「相手を得る」「手に入れる」という形で語られる。しかし、これはまさに資本主義的交換モデルが恋愛に侵入した典型例である。
“Modern man’s relationship to love is like his relationship to commodities: he exchanges one person for another that he perceives to have more value.”
― The Art of Loving
この発想では、愛は所有と独占、または「より良い商品」への乗り換えへと変質する。その結果、恋愛は持続可能な関係性というよりも、スペック比較と市場競争に巻き込まれる一時的契約となる。
Rさん(27歳・女性)は、恋人に過剰に依存し、LINEの返信が1時間空くだけで「嫌われたのでは」と不安になってしまう。相手の表情や声色に過敏になり、心の中で何度も「もう終わりかもしれない」と思い詰める日々。心理カウンセリングの中で、彼女は次のように気づいた。
「私は“愛されたい”気持ちばかりで、“愛すること”をしていなかったかもしれない。」
このように、「愛される」ことを目的化すると、他者を自己の不安を満たす道具として見るようになる。フロムが説いた「能動的な愛」の対極にあるこの状態は、恋愛を破壊する内的構造そのものである。
フロムは、恋愛において最も重要なのは、相互依存ではなく、相互に自立した二人が出会うことだと説く。愛とは「一体化への欲求」と「自立した存在としての尊重」の緊張の中に成立する。
“Mature love says: ‘I need you because I love you.’ Immature love says: ‘I love you because I need you.’”
― The Art of Loving
このパラダイムは、「寂しさを埋めるための恋愛」から、「成長を共有するための関係性」への転換を意味する。
現代の恋愛市場では、「いい相手を探す」ことに重きが置かれすぎている。しかしフロムは繰り返し強調する。「愛することは能力であり、それを育てる努力なしに理想的な関係は築けない」と。
この視点は、自己成長と恋愛を不可分に結びつけるものだ。つまり、恋愛とは“相手との付き合い方”の問題ではなく、自分の“愛し方”の成熟度にかかっているのである。
恋愛には陶酔も、情熱も、期待も必要だろう。しかしそれだけでは、持続する関係性を築くことはできない。フロムが私たちに問うのは、「その感情の先に、あなたは“誰かを育てるように愛せるか?”」ということである。
幻想を幻想として見抜いた時、はじめて恋愛は現実の営みとなり、成熟した愛への扉が開かれる。
次章では、「教育としての愛」の視点から、教育現場や子育てにおける愛の役割を深掘りしていく。
エーリッヒ・フロムの人間観は一貫して、人間は自らを形成し続ける存在であり、その成長の本質は“愛する能力”の発展にあるというものである。彼にとって、教育とは単に知識を伝達する技術ではなく、人格的関係を通じて他者の内なる可能性を開花させる行為であった。
“Mature love is the union under the condition of preserving one’s integrity, one’s individuality.”
― The Art of Loving
この「成熟した愛」の考え方は、教育者と学習者の関係性にもそのまま当てはまる。教育とは支配でも、管理でも、操作でもない。それは、個々人の固有の内的成長を促す、愛に基づく対話と信頼のプロセスである。
近代教育は長らく、「教師=知識の所有者」「生徒=受け手」という垂直的な構造に基づいてきた。しかしフロムはこうしたモデルを批判し、教育者を**「成長を支える同伴者(facilitator)」**として再定義する。彼は教師の役割をこう語る:
“Education is identical with helping the child realize his potentialities.”
― To Have or To Be?
これは、教師が生徒を「型に当てはめる」存在ではなく、生徒自身が自らの成長を引き受けられるよう支援する存在であることを意味する。
公立中学の国語教師K氏は、発達障害のある男子生徒に毎朝5分間、ただ隣に座り「何も言わずにいる時間」を持ち続けた。それは注意や指導の時間ではなく、「私はあなたを見ている。否定していない」という静かな肯定の表明だった。半年後、生徒は自ら「話してみたい」と言い出し、自発的な作文を書き始めた。
このエピソードは、教育とは「働きかけること」以前に、「共に在ること」から始まるということを教えてくれる。
現代教育は、ともすれば「就職に役立つ能力」「社会に適応する力」の育成に偏重しがちである。しかしフロムは、人間の価値を“有用性”ではなく、“存在そのもの”に見出す視点を一貫して持ち続けた。
この点で彼の思想は、教育哲学者ジョン・デューイやマリア・モンテッソーリとも共鳴する。彼らもまた、教育を「人格の完成」へのプロセスとして捉え、愛をその中心に置いた。
教育における愛とは、抽象的な感情ではなく、具体的な技法の連なりとして表れる。以下に、フロムの理論に基づく愛の教育的実践を3つ紹介する。
フロムが重視した「関心を持つこと(care)」は、教育現場では「傾聴」として実現される。ただ言葉を聞くのではなく、生徒の言動の背後にある動機や苦悩、希望に寄り添うことで、教師と生徒の間に「聴かれているという実感」が生まれる。
愛とは「理解しようとする意志」であり、教育もまた知性と感情の両方を含む全人的プロセスである。共感をもって接することで、生徒は「自分が受け入れられている」という安心感を得る。
教育者が生徒に「信頼して任せる」ことは、成熟した愛の最も困難な側面である。しかし、人は信頼されることで自らの可能性に出会う。過保護でも放任でもない、「信頼に基づく自由」は、愛の最高形態であり、教育の完成形でもある。
フロムの愛の思想は、教育において次のような重要人物と親和性を持っている:
ジャン=ジャック・ルソー:「自然に学ぶ子ども」の姿を描き、教育とは内在する可能性を引き出すものとした。
パウロ・フレイレ:教育を「抑圧からの解放の手段」と捉え、対話に基づく教育(愛の教育)を提唱した。
モンテッソーリ:子どもを「自由な精神を持つ存在」と見なし、尊重と観察に基づく教育環境を築いた。
これらの思想とフロムの「愛=技術」論を接続することで、教育は「人間形成の芸術」として再定義される(Cohen, 1990)。
フロムは、教育の究極の目的を「人が人を愛する力を育てること」にあると考えた。知識、スキル、競争、評価といった外的な成果を超えて、教育が人間存在そのものにアプローチするためには、愛の視座が不可欠なのである。
実際、Mauricio Cortina (2015)は、フロムの教育的思想を「愛を通して倫理と自律を内面化させる過程」と定義している。つまり、愛は単なる感情ではなく、人格の内側に根付いた倫理的力なのである。
エーリッヒ・フロムの思想に照らせば、教育とは知識を与える作業ではなく、人を信じ、人を愛することを通して、その人が自分の中に眠る力を開花させるプロセスである。
教師という存在は、単なる知識の提供者ではなく、「愛する技術を体現する実践者」である。彼らが発するひとつの言葉、視線、沈黙が、生徒の人生に決定的な意味を持ちうる。
次章では、こうした「教育としての愛」から、さらに現代的課題である「デジタル時代における愛の変容」へと視点を移し、新たな愛のかたちを模索していく。
私たちは今、かつてないスピードで情報と人とつながることができる時代に生きている。メッセージは一秒で届き、マッチングアプリでは数分で「理想の相手」とマッチングできる。SNSでは何百人と“友達”でいられ、誰かが今どこで何をしているかもリアルタイムで知ることができる。
しかし、この**「つながっているようで、つながっていない感覚」**こそが、フロム的視点から見ると現代の最大の課題である。エーリッヒ・フロムが説いた愛とは、忍耐・注意・配慮・理解・持続といった「遅い」技術の集積である。
“Love requires knowledge, effort, and experience.”
― The Art of Loving
ところが、デジタル社会はそれとは逆の方向――即応・表層・刺激・数値化・切断――に向かって人間関係を進化させてきた。つまり、愛の土壌が痩せ細っているのである。
フロムが警告した「ナルシシズム」(自己愛の歪曲)は、現代では自己ブランディングの形で新たに強化されている。インスタグラムやX(旧Twitter)での「映える投稿」や、プロフィールでの「理想的自分」の演出は、「他者にどう見られるか」に自己の価値を依存する生き方を強化する。
“Modern man lives under the illusion that he knows what he wants, while he actually wants what he is supposed to want.”
― Escape from Freedom
つまり、自己が“所有物”のように展示され、愛されるための「価値」が消費的に扱われる社会では、自己愛は内発的な自尊ではなく、他者評価への過剰適応に堕してしまう。
Zさん(25歳・男性)は、フォロワー数1万人を抱えるインフルエンサーだが、「誰にも本音を話せない」と語る。共感コメントやハートの数が自分の価値の証明となり、常に「更新し続けなければ消える恐怖」に追われている。彼の孤独は、まさに**「見られ続けることで関係しているように錯覚しているが、実は何者にも愛されていない」**というフロムの予言そのものである。
現代のテクノロジーがもたらした最大の錯覚の一つは、「効率的な恋愛」「デジタルで築ける親密性」である。確かに、マッチングアプリやチャットで出会いは加速した。しかし、それは**関係性の「創造」ではなく、「発見」や「即時消費」**という態度を生み出しやすい。
“Erotic love is often confused with the initial experience of falling in love; this experience of sudden intimacy is largely illusory.”
― The Art of Loving
アルゴリズムによって「好み」が選ばれ、チャットによって人間関係がパターン化される社会では、愛の核心である**“予測不能な他者との関係性”**が消失しやすい。人を「知る」という営みではなく、「効率よく分類する」ことが目的になってしまっているのだ。
では、フロムの思想を通して、デジタル時代の私たちはどのように「愛する力」を取り戻せるのか? 彼の理論は、技術の否定ではなく、技術に対する人間的統御の回復を求めていた。
以下に、デジタル時代において愛の能力を再育成するための実践的ステップを提案する。
情報が流れ続ける日常の中で、**「何も起きていない時間」=「愛の熟成時間」**を意識的に作る。たとえば、1日15分スマホを見ずに、パートナーや友人と目を見て話すだけでも、「今ここ」にいる感覚が回復する。
既読スピードではなく、返信の内容を深めることに価値を置く。即答文化に抗って、「考えて返信する」「返信しない時間も信頼する」ことで、テクノロジーの中にも人間的リズムを導入できる。
「話し合った」「向き合った」「ぶつかった」など、時間をかけた経験の蓄積こそが、愛を人間的な営みとして根づかせる。アルゴリズムでは測れないものに価値を置く習慣を育てよう。
デジタル技術そのものが悪なのではない。むしろ、それをどのように使い、どのような関係性を志向するかが問題である。フロムが晩年に提唱した「希望の革命」(The Revolution of Hope) は、まさに人間が技術と制度に飲み込まれるのではなく、それを愛と理性で乗りこなす能力を育むことを目指していた(Cohen, 1990)。
エーリッヒ・フロムの問いは、デジタルの海に生きる私たちに新たなかたちで響く。「愛するということは、技術である」――この言葉は、テクノロジーの進歩によって関係性が希薄化する現代においてこそ、深い意味を持つ。
今や、愛はただ感じるものではなく、選び取るべき生き方となった。
私たちは、どのような関係を築き、どのように時間を使い、どのように人を見つめ、触れ、言葉を交わすのか。そのすべてが、「愛する力」の実践である。
ここまでの章を通じて見てきたように、エーリッヒ・フロムにとって「愛」とは、単なる感情や関係性ではなかった。むしろそれは、人間がどう世界と関わるか、どう自分を育て、他者と関係を築くかという“生の在り方”そのものである。
“Love is the active concern for the life and the growth of that which we love.”
― The Art of Loving
この「能動的関心」というフロムの表現に集約されているように、愛とは受動的な感情でも、条件付きの契約でもない。自らの存在を深めながら、他者の存在の開花にも責任をもって関わろうとする、継続的な意志である。
フロムは繰り返し、「愛は技術である」と語った。これは、料理人が包丁を研ぎ続けるように、音楽家が指の筋肉を鍛えるように、愛する力もまた意識的な実践と反復によってのみ獲得されるということを意味している。
我々は、誰かを愛する前に、「愛する力そのもの」を鍛える必要がある。それは以下のような姿勢として日々表れる:
他者の話を本気で聞こうとする「集中力」
過ちを一方的に断罪せず、理解しようとする「共感」
相手の成長を自分の利益を超えて喜べる「無償性」
信頼し、干渉しすぎず、見守る「成熟した距離」
愛とは、こうした行為の積み重ねの総体である。
フロムの愛の理論は、単なる心理学ではなく、人間存在の倫理的提案でもあった。資本主義が人間を物として交換・評価し、テクノロジーが人間関係を速度と量へと変換していく時代にあって、フロムの思想は「人間中心主義(humanism)」という倫理の回復を目指す。
“To love means to commit oneself without guarantee, to give oneself completely.”
― The Art of Loving
愛には「保証」がない。だが、それでも与える。この倫理こそが、個人を自由で成熟した存在へと導き、社会を分断から癒しへと導く力となる。
フロムがもっとも強く批判したのは、「愛されること」にばかり価値を置く現代人の姿勢である。愛されるために魅力を高め、愛されないと意味がないと感じる――そのような態度では、私たちは常に「他者によって自分が決定される」存在にとどまってしまう。
本書を通じて目指してきたのは、この態度の根本的転換である。つまり、**「愛されたい」から「愛したい」へ、そして「愛することによって、愛されることは自然と起こる」**という主語の移行である。
私たちは、もしかするとこれまで「愛を得ること」に必死だったのかもしれない。理想のパートナー、完璧な親子関係、理解してくれる友人。だが、フロムは別の道を示す。
彼はこう問いかける。
“Ask not ‘how can I be loved?’ but rather ‘how can I love?’”
この問いに真摯に答えようとすること。それこそが、私たちが“愛する者”として生きる唯一の出発点である。
本稿は、「母性愛」「父性愛」「兄弟愛」「自己愛」という四類型に始まり、愛の実践、社会的疎外、宗教、恋愛、教育、デジタル社会へと、フロムの思想を多角的に探ってきた。
この旅路を通して見えてきたのは、愛とは選択であり、姿勢であり、生き方そのものだという事実である。
誰かを一時的に愛するのではない。自分の全人生をかけて、「愛する人間として生きる」ことこそが、フロムの語る愛の真の姿である。
ショパン・マリアージュは貴方が求める条件や相手に対する期待を明確化し、その基準に基づいたマッチングを行います。これにより、結婚生活の基盤となる相性の良い関係性を築くためのスタートを支援します。また、結婚に関するサポートや教育を通じて健全なパートナーシップを築くためのスキルや知識を提供します。
あなたに合った結婚相談所が
見つかります!
お気軽に連盟スタッフにご相談ください。
あなたに合った結婚相談所をご紹介いたします。
活動がしやすい環境がとても大切です。また担当者との相性も重要なポイント。ぜひあなたに合った結婚相談所を見つけてください。