恋愛体質とそうじゃない人、何が違うの❓
寿Concierge ことこん(東京都)
2025.04.05
ショパン・マリアージュ
「私はあなたを愛している」――その言葉の背後に、果たしてどれだけの真実があるのだろうか。加藤諦三教授は、愛という言葉の中に含まれる「自己欺瞞」の深淵を見抜いている。「自分を知らない者は、他者をも知らず、結果として、愛するという行為もどこか空虚になる」と。
この章では、愛という名のもとに人がどれほど自己を偽り、他者に依存し、そして破綻していくか――その構造を丁寧に紐解いていく。
加藤諦三はこう言う。
「多くの人が愛と呼んでいるものは、実は他者への依存や支配、あるいは自己の空虚を埋める手段でしかない。」
これは非常に厳しいが、核心を突いた指摘である。私たちはしばしば、「あなたがいなければ生きていけない」「あなたが必要だ」といった言葉を美しいものと錯覚する。しかし、そこにあるのは真の愛ではなく、「自己を支える柱」としての他者への執着である。
このような構造を、加藤は「共依存」と呼ぶ。愛されたいがために自分を偽り、相手に過剰に尽くし、その見返りに承認や愛情を求める。その実、愛するというより「自分が満たされたい」だけの取引なのである。
ここで一つの具体的事例を見てみよう。
40代の男性Kさんと、30代後半の妻Mさんは、結婚10年目にして深刻な夫婦関係の危機に直面していた。外から見れば、穏やかで何の問題もなさそうな家庭。しかし、Mさんは慢性的な不安に苦しみ、「夫がいないと生きられない」と言い続けていた。夫が飲み会に行けば「私のこと、もうどうでもいいの?」と問い詰め、帰宅が少しでも遅れれば涙を見せた。
一方、Kさんは「妻のため」と思い、自由を諦め、友人関係も断ち切った。だがそのうち、息苦しさに耐えられなくなり、次第に無表情になっていった。
このケースの問題点は、Mさんの「愛している」という言葉の中に隠れた「依存」である。彼女にとって夫は「安心の源」であり、自己の不安を和らげてくれる存在だった。だが、夫そのものを愛していたわけではない。彼が「そこにいてくれること」だけが目的化していたのである。
このような関係では、いくら「あなたを愛している」と言っても、そこには尊重も自由もない。むしろ、他者を自己の不安を抑える「道具」としてしまっているのである。加藤が警鐘を鳴らすように、「本当の愛には自由がある」。共依存の愛にはそれがない。
人は、愛されたいのではなく、実は「孤独が怖い」のである。加藤は、『孤独という生き方』の中でこう述べる。
「孤独を受け入れられない人は、誰かを愛することもできない。」
これは逆説的だが真実である。誰かと一緒にいることによって、ただ孤独を埋めようとしているうちは、それは本当の意味での愛ではない。
実際、恋人や配偶者と一緒にいるにもかかわらず「虚しい」と感じる人は多い。これは、相手の存在によって孤独が完全に消えるわけではないことを、どこかで無意識に気づいているからだ。
孤独は、他者によって消えるものではない。それは、自己の内部に向き合い、理解することでしか乗り越えられないものなのである。加藤が言うように、**「孤独を受け入れることで、人は初めて他者と対等に関われる」**のである。
ここでまた一つ、カウンセリング事例を紹介したい。
20代女性のAさんは、常に恋愛がうまくいかず悩んでいた。どの恋も短命で、「もっと私のことを大切にしてくれる人がいい」と相手を変え続けていた。だが、彼女の語る「大切にされたい」という願望の裏には、幼少期の強い愛情欠如があった。
母親は情緒不安定で、機嫌が悪いと暴言を吐くことも多く、Aさんは常に「母の機嫌を損ねないように」振る舞っていた。その結果、彼女の中には「私は私のままでは愛されない」という信念が形成されていた。
そのため、Aさんは恋愛において「どうすれば相手に好かれるか」を常に考え、自己を押し殺して尽くす。だが、それは本当の自己を差し出して愛されているわけではないので、どこかで「虚しさ」や「怒り」が溜まる。そして関係は破綻する。
加藤諦三は、これを**「愛の自己欺瞞」**と呼ぶ。愛されたいと願う人ほど、実は他者を愛せない構造に陥っているのだ。自分を受け入れていない人は、他者の愛を信じることができないからである。
加藤は、次のようにも述べている。
「愛するとは、自分の弱さを相手にさらけ出すこと。そして、それでも見捨てられないことを信じる勇気である。」
つまり、真に人を愛するとは、自分を偽らずに差し出すことを意味する。それは、恐ろしいことである。拒絶されるかもしれない、裏切られるかもしれない。それでもなお、自分を信じ、相手を信じる――その勇気がなければ、本当の愛には辿り着けない。
だが、私たちの多くはその「恐れ」から逃げ、かわりに「相手を操作することで安心を得ようとする」。これこそが、自己欺瞞の根源である。
愛を語るとき、私たちは「相手」についてばかり語る。しかし、本当に向き合うべきは「自分自身」である。自分が何を求めているのか。なぜ求めているのか。その根源を見つめることでしか、愛は成熟していかない。
加藤諦三は、愛の本質をこう結んでいる。
「人は、自己を理解したときに、初めて他者を理解する。自分を愛せたときに、他者を本当に愛せる。」
自己欺瞞から自由になったとき、初めて「本当の意味での愛」が始まるのである。
「私は誰かに必要とされたい」「私は誰かの特別でありたい」。
そう思うこと自体は、ごく自然な人間の感情である。けれど、その想いがやがて過剰となり、歪みとなり、ついには「愛されている感覚」にすり替わってしまうことがある。そこにあるのは、果たして本当の愛なのだろうか――。
加藤諦三教授は、愛を求める多くの人々が「愛」ではなく、「承認」を求めているという事実を、何度も著作で指摘してきた。承認欲求と愛情の混同。それは、現代の人間関係を蝕む最も見えにくい病である。
インスタグラムの「いいね」、X(旧Twitter)のリポスト、TikTokの再生数。
現代の人々は、可視化された“共感”や“評価”によって、自分の存在価値を確認するようになった。そこには確かに「人から注目されたい」「認められたい」という心理が働いている。
だが、ここに問題がある。「評価される」ことと「愛される」ことはまったくの別物であるにもかかわらず、多くの人がこの二つを無意識に混同してしまっているのだ。
加藤は言う。
「承認欲求に支配された人は、愛を欲しているのではなく、自分の存在が否定されていないという確認を欲しているだけである。」
つまり、SNSで“見られる”ことで自分が“愛されている”と錯覚することは、愛の本質とはかけ離れているということである。
Yさん(28歳・女性)は、3年前から美容やライフスタイルに関する投稿で数万人のフォロワーを持つインフルエンサーだった。日々、コメント欄には「可愛い!」「憧れです!」「彼氏さん羨ましい」といった声が寄せられ、彼女自身も「自分は愛されている」と感じていた。
だが、ある時、付き合っていた恋人に「お前はSNSの中の自分しか見ていない」と告げられ、破局。彼の言葉をきっかけにYさんは、自分が「他人にどう見られるか」ばかりにとらわれ、実際の恋人や家族との関係をほとんど築けていなかったことに気づく。
彼女が求めていたのは、パートナーとの深いつながりではなかった。「誰かに羨ましがられる存在」であることだったのだ。そして、それを「愛されている」と錯覚していた。
このように、現代においては、「愛の演出」こそが愛の証明のように扱われることがある。しかし、それは愛ではなく、「見られていないと不安になる」という承認中毒にすぎない。
このような承認欲求の過剰は、実は幼少期に根差していることが多い。加藤諦三は、親からの条件付きの愛が、やがて大人になっても「評価されないと不安」という心理に変化すると指摘している。
「条件付きの愛を受けて育った人は、自分の“存在”ではなく、自分の“成果”や“態度”にしか価値を見いだせなくなる。」
たとえば、親から「いい子ね」「成績がいいと嬉しい」と言われて育つと、「私は“いい子”でないと愛されない」という感覚が刷り込まれる。結果として、大人になっても他人の期待に応えようとしすぎたり、愛されるために無理をする癖がついてしまう。
この「演じた自分」が愛されると、たしかに承認欲求は満たされる。だが同時に、「本当の自分は愛されていない」という孤独も深まっていく。そこにあるのは、恐ろしいほどの空虚だ。
カウンセリングに訪れた20代のカップルの例を紹介しよう。
彼らは一見理想的な関係に見えた。SNSには毎週のようにデート写真を投稿し、記念日にはお揃いのプレゼント。だが、実際には口論が絶えず、女性は「彼が投稿してくれないと不安」と訴え、男性は「世間に見せるための関係に疲れた」と語った。
このケースも、承認欲求と愛情の混同が招いた典型である。
彼女にとって「彼が私を大切にしているか」は、SNSにどれだけ投稿してくれるかで判断されていた。つまり、「関係の実態」ではなく「他者の目にどう映るか」が彼女の中での愛の基準だったのだ。
だが、愛とはそもそも“他人に見せるもの”ではない。むしろ、人に見せられないほど不格好で、不安定で、しかし温かいものであるはずだ。そこには見栄も評価もいらない。ただ「二人の間にあるもの」だけが、静かに存在する。
加藤は、『自分に気づく心理学』の中でこう述べている。
「人は、自分の存在そのものに価値があると確信したときにだけ、他人を純粋に愛することができる。」
つまり、自己肯定感が確立していない人は、「他人からの評価」や「比較」によってしか自分を支えられない。だからこそ、愛することさえも、どこか取引的になる。「これだけ尽くしたのだから、愛してもらって当然」という思いが生まれる。
自己肯定感とは、「何があっても自分には価値がある」と信じられること。この感覚を持つ者だけが、「相手に何も求めずに与える」という無償の愛の入り口に立てる。
加藤は一貫して、「愛とは相手の存在そのものを肯定すること」だと説いている。
たとえば、ある老夫婦の話。夫は長年、無口で感情を表に出さず、妻は時折「この人は私を愛していないのでは」と不安を抱いた。だが、ある日、夫が病に倒れ、看病の中でポツリと「お前がいてくれてよかった」と言った。
それはたった一言だったが、妻にとっては「何も飾らない、本当の愛の証」として深く胸に刻まれた。
愛とは、華やかな言葉や演出ではない。日々の中で、互いの存在を大切に思う、その繰り返しにこそ宿るものである。
承認欲求は、人間の根源的な欲望である。しかし、それを「愛」とすり替えることは、自他を不幸に導く。「認められたい」という気持ちは認めつつも、それと「人を愛する」という行為は、まったく別のものであると理解しなければならない。
愛とは、仮面を外したあとにしか始まらない。
加藤諦三の言葉が静かに響く。
「あなたがあなた自身であるとき、そしてそのあなたが誰かに受け入れられたとき、初めて人は愛されていると感じることができる。」
私たちは、生まれながらにして「完全な人間」ではない。
それにもかかわらず、恋愛においても結婚においても、「完璧な相手」「理想の関係」を追い求めてしまう。
そしてその果てに、失望と怒り、そして孤独が待っている。
加藤諦三教授は、人間関係の失敗の多くが、「人間は不完全である」という前提を受け入れられないことに起因すると繰り返し述べている。
不完全なまま誰かを愛すること。欠けたまま共に生きること。それこそが、成熟した人間関係の出発点である。
Sさん(女性・40代)は、「理想の夫婦」を目指していた。
朝は必ず一緒に朝食をとり、休日には手をつないで散歩し、記念日には欠かさず感謝を伝え合う。そんな家庭を築くことこそが、自分にとっての幸せだと信じていた。
しかし、現実の夫は違った。仕事の疲れを理由に朝食をパスし、休日は一人でゴルフに出かけ、記念日も忘れがちだった。Sさんは次第に「私のことを大切に思っていないのでは」と感じ始め、夫に不満をぶつけるようになった。
「どうして理想通りにしてくれないの?」
「こんなに努力しているのに、あなたはどうして…」
だが、夫は次第に黙るようになり、2人の間には距離ができていった。
加藤諦三は、このような関係における「理想の押しつけ」を、「愛ではなく欲望」であると明確に切り分けている。
「人を愛するとは、その人のありのままを受け入れることである。しかし、多くの人は“自分が欲しい人”を愛しているつもりで、“相手そのもの”を見ていない。」
Sさんは、「理想の夫婦」を愛していたのであり、「夫そのもの」を愛していたわけではなかった。それが、彼女にとっての落とし穴だった。
加藤はまた、人間関係における「変化の期待」が苦しみを生むことを強く警告している。
「人を変えようとすることは、その人を否定することである。」
「彼がもっと優しくなってくれれば…」
「妻がもっと理解してくれれば…」
こうした願望の背後には、「今のあなたでは不十分」という無言の否定がある。それは当然、相手にも伝わってしまう。そして、相手は萎縮し、防衛的になり、次第に関係は冷たくなっていく。
人は基本的に変わらない――その事実を受け入れることから、真の関係性は始まる。
変わらない相手を「そのままで良い」と思えたとき、そこに本当の愛が宿る。
ある60代の老夫婦がいた。夫は頑固で融通が利かず、妻は感情的で衝動的。若い頃は口論が絶えず、別居寸前にまで至ったという。
だが、ある日、妻が脳梗塞で倒れ、言葉が不自由になった。夫は仕事を辞め、介護に専念するようになる。彼は何も言わず、ただ黙って妻のそばにいた。言葉が通じない中でも、妻が不安そうに目を潤ませると、夫は肩を優しく抱いた。
「お前はお前でいいんだよ」と、その背中が語っていた。
人は誰しも不完全である。だが、その不完全さを「責める」のではなく、「共に背負う」こと。そこに本質的な愛のかたちがある。
加藤諦三は言う。
「不完全な人間であることを自分に許したとき、人は他者の不完全さにも寛容になれる。」
他者に理想を押しつける人は、えてして自分自身にも同じ圧力をかけている。
「もっと優しくなれ」
「もっと完璧に振る舞え」
「弱さを見せるな」
このような「内なる声」は、幼少期に「失敗してはいけない」「期待に応えなければ価値がない」と刷り込まれた記憶の残滓である。
このような人は、自分の弱さを隠そうとし、他人の弱さにも不寛容になる。すると、「自分が苦しいのは、相手が至らないせいだ」と感じ、関係に不満が募る。
だが、それは愛の問題ではなく、自己受容の問題である。
加藤諦三は、繰り返し「まず自分自身を許すこと」の重要性を説いている。それによって初めて、相手の欠点を「愛すべきもの」として見る目が育まれるからだ。
Mさん(30代・男性)は、長年「理想の彼女像」を持ち続けていた。気が利き、知的で、感情をコントロールできる女性。だが、出会う女性がその理想に少しでも外れると、心が冷めてしまう。
そんな彼がある日、感情の起伏が激しいが素直な女性と出会った。彼女は泣いたり笑ったりが激しく、理性的とは言い難かった。しかし、一緒にいてなぜか「心がほどける」感覚があったという。
最初は「こんなに感情的な人とは無理だ」と思っていたMさんだったが、次第に「それでもいい」と感じるようになった。「欠けた部分があるからこそ、人は人間らしい」と思えるようになったのだ。
そして彼は、初めて「誰かを愛する」という体験をした。
理想を手放したときにしか、生まれない愛がある。
完全であることに、人はなぜこんなにもこだわるのか。
傷つけたくない、失いたくない、失敗したくない。
けれど、完璧であることは、時に人間らしさを奪っていく。
加藤諦三は、愛とは「欠けた者同士の共鳴」だと説く。
そこにあるのは、強さではなく、弱さの共有である。
不完全だからこそ、愛が必要なのである。
「人間の不完全さを受け入れたとき、そこにはじめて“愛”が宿る。」
人間の限界。それは敗北ではなく、出発点である。
それを認めることが、成熟した愛の第一歩である。
「愛されたい」という願いと、「人を愛したい」という意志は、同じようでいて、まったく異なる次元の営みである。
加藤諦三教授は、愛をテーマにした多くの著作の中で、この二つの間にある決定的な断絶を何度も繰り返し語っている。
「『愛されること』ばかりを求めている人間は、『愛すること』の苦しさや責任から逃げている。」
本章では、なぜ人は「愛されたい」と強く願いながらも、「誰かを本当に愛すること」ができないのか。
そして、その背景にある幼少期の愛情経験――とりわけ「無条件の愛」を知らずに育った人々の心の構造を、具体例とともに読み解いていく。
加藤諦三は、愛についての最も根源的な命題をこう述べている。
「人は、愛されることによって、愛する力を学ぶ。」
この言葉が示すように、愛は先天的な能力ではなく、後天的な“学習”である。
それも、極めて早い時期――すなわち、乳幼児期の母親(または養育者)との関係の中で学ばれるものだ。
親が子どもに「あなたが生きているだけで、あなたは愛されるに値する」と伝える。
この無条件の肯定を通して、子どもは「私はこの世界に受け入れられている」という基本的信頼感を身につける。
この感覚があるからこそ、やがて他者に対しても「無条件の肯定」を向けることができるようになる。これが「愛する」という行為の出発点である。
しかし、もしその時期に愛されなかったら――
あるいは、「成績が良いから」「良い子にしているから」愛されたのだとしたら。
その人は、「存在そのものを受け入れる」という感覚を知らずに育つことになる。
Tさん(男性・27歳)は、恋愛が苦手だった。女性に惹かれることはあるし、恋人もできる。だが、関係が深まるにつれて、必ず彼は距離を置き始める。相手から「もっと一緒にいたい」と言われると、なぜか強い不安や怒りが湧いてくる。
彼の育った家庭は、表面的には機能していた。母親は家事をこなし、父親は仕事をし、家族で外食もしていた。しかし、Tさんの記憶にあるのは「静かな緊張感」と「いつも自分を試されている感覚」だった。
彼は、親に褒められるために勉強を頑張り、言葉を選んで話し、親の機嫌を損ねないよう常に自分を制御していた。つまり、「条件付きの愛」に晒されていたのだ。
結果、Tさんは「誰かに愛される」という経験を持たないまま大人になった。恋人に対しても、「本当に自分を好きなはずがない」「そのうち幻滅される」という恐れが常に付きまとい、やがて関係を自ら壊してしまう。
加藤諦三は、こうした人々を「愛の不感症」と表現する。
彼らは「愛しているつもり」で関係を持つが、本当は「拒絶されたくない」「自分が傷つかないようにしたい」という防衛だけで動いている。
第1章でも述べたが、改めてここで強調したい。
自己を受け入れられない人間には、他者を受け入れることはできない。
これは感情論ではなく、心理学的にも明らかな事実である。
なぜなら、他者との関係において私たちが感じる不安や恐怖は、多くの場合、自分の内側にある「否定された経験」と深く結びついているからだ。
たとえば、「愛されているのに不安になる」「相手に優しくされると、なぜか引いてしまう」という現象は、幼少期に「愛された記憶がない」ことによって、愛を「異物」として感じてしまう反応である。
加藤は言う。
「人に対する基本的な信頼感がない者は、親密な関係において常に自己防衛的になる。すると、愛することが苦しくなり、他人を遠ざけてしまう。」
現代人の多くが、「愛されたい」と叫んでいる。
しかしその一方で、「人を愛することの意味」には向き合おうとしない。
「自分が満たされること」ばかりを望み、「与えること」の重さや責任から目を背けている。
この不均衡が、関係を歪めてしまう。
愛は、まず「相手の差し出した愛情を受け取る」ことから始まる。
そして、自分の中に溜まっていった愛情を、誰かに「返す」「注ぐ」ことで、初めて循環が生まれる。
この循環の中に、成熟した人間関係が育っていく。
それは、瞬間的な情熱ではない。
時間をかけて育まれる、習慣と意志の結晶である。
「親に愛されなかったから、私は人を愛せない」
――これは一つの現実であると同時に、運命ではない。
加藤諦三は、たとえ過去に傷を負っていても、人は愛を学びなおすことができると繰り返し説いている。
「人は、自分の内なる声を聞き、傷ついた過去を見つめ、それでもなお他者に心を開こうとしたとき、初めて“愛する力”を手に入れる。」
カウンセリングや人との出会い、信頼関係の積み重ねの中で、私たちは「本当の愛とは何か」をゆっくりと学びなおすことができる。
幼い頃に無条件の愛を知らなかった人間も、大人になって「選びなおす」ことができる。
それは容易ではないが、可能である。
「愛されること」は、受動的である。
「愛すること」は、能動的であり、かつ恐ろしいほどの孤独を伴う。
なぜなら、「相手が応えてくれるかどうか」は分からないからだ。
それでもなお、誰かの幸福を願い、何かを差し出す――そこに、人間としての成熟がある。
加藤諦三は語る。
「本当に強い人間とは、自分が愛されなくても、なお他人を愛せる人である。」
それは、まさに人間の限界を知り、その限界を超えてなお誰かに手を差し出す行為。
それが、愛である。
「本当に愛しているから離れられない」
「相手がいないと生きていけない」
「ずっと一緒にいようって言ってくれたのに…」
これらの言葉は、現代において“ロマンチックな愛の象徴”として扱われることがある。だが、加藤諦三教授の視点に立てば、こうした愛はむしろ「未成熟な愛」「愛のように見える依存」に過ぎない。
加藤は明言する。
「人を支配しようとする愛、相手をコントロールしようとする愛、それはすでに愛ではない。」
真に成熟した愛とは、自由を許す愛であり、孤独を受け入れた者だけが辿り着ける境地である。本章では、「成熟した愛」がどのようなものであり、そこに至るには何が必要なのかを、エピソードや心理構造を交えながら明らかにしていく。
加藤諦三の愛の定義において、「執着」と「愛」は明確に区別される。執着は恐れから生まれ、愛は信頼から生まれる。だからこそ、執着は相手を手放せずに縛り、愛は相手を自由にさせることができる。
彼は言う。
「相手がいなくなったら自分が壊れてしまうというのは、相手を愛しているのではなく、相手に依存しているだけである。」
つまり、成熟した愛とは、「一緒にいること」を目的にしない。「共に在ることが自然である」関係性の中に育まれるものであり、それは時に距離や沈黙をも含んでいる。
Yさん(女性・70代)は、夫と50年連れ添ってきた。かつては衝突も多かったが、いまではお互いの生活リズムを尊重し、ほとんど会話を交わさない日もあるという。
「若い頃は、夫にいろんなことを話してほしかったし、一緒にテレビを見たり、旅行に行ったりしたかった。でも、いまは違うの。別々のことをしてても、一緒にいるって感じられるのよ」
彼女のこの言葉には、成熟した愛の本質がある。無理に“共にいる”必要がない関係こそが、最も自然で穏やかな結びつきであるということ。愛は、べったりとくっつくことではない。それは、信頼に裏打ちされた静かな連帯なのだ。
加藤諦三は、自立と依存の間に「健全な愛」が育つと繰り返し語っている。
「真に自立した者だけが、他者と対等な愛の関係を築くことができる。」
これは逆説的なようでいて、極めて論理的である。
依存が強い人間は、相手に「自分を満たしてほしい」「空白を埋めてほしい」と期待してしまう。すると、関係は次第に取引的になり、疲弊していく。
一方、自立している人間は、自分の不安や寂しさを自分で抱えることができる。だからこそ、相手を「自分の人生の一部」として迎え入れる余白が生まれる。
愛とは、自分が満たされているからこそ、他者に与えることができる営みなのだ。
恋愛において、「一体化」に憧れる人は多い。
同じ趣味、同じ価値観、同じ時間を過ごす――そうした共通点の多さが愛の証とされることもある。
だが、加藤はこう警告する。
「二人がまったく同じであることを求めるのは、相手を“自分の一部”にしようとする危険な欲望である。」
成熟した愛においては、違いを尊重し、衝突を恐れず、必要であれば離れて考えることができる。それは「融合」ではなく「協調」であり、「同化」ではなく「対話」である。
本当に豊かな関係とは、「別の個」が「ともに在る」ことを許し合う関係なのだ。
ある女性が、恋人からの連絡が数時間途絶えただけで不安になり、何度もメッセージを送ってしまうという相談をしていた。
「彼が私を好きじゃなくなったらどうしよう」
「他の女の子と一緒にいたらどうしよう」
このような不安は、「彼を愛している」からではなく、「見捨てられるのが怖い」という自己不安に根ざしている。加藤はこのような感情を「見捨てられ不安」と呼び、それを抱える人々は他者との関係において「常に愛を確認し続けなければならない」と語る。
だが、成熟した愛においては、「相手の中に確かな愛がある」と信じることができる。信じるからこそ、確認する必要がない。
愛において最も深い形とは、「不安がない」状態ではなく、「不安があっても関係が壊れない」状態なのだ。
加藤諦三が述べる「成熟した愛」の最も美しい定義の一つがこれである。
「本当に誰かを愛するということは、その人が自分のもとから去っても、その人の幸福を願えることである。」
これは、極めて高い精神性を要する態度である。
だが、真に他者の幸福を願えるとき、人間は初めて「愛する側」に立てる。
そこには、見返りも、期待も、取引もない。あるのはただ、「あなたがあなたらしくあれるように」という静かな祈りだけである。
このような愛は、短期的な情熱では得られない。それは、長い時間をかけて、幾度となく傷つきながらも、「なお他者を信じる」覚悟の積み重ねによって生まれるものである。
成熟した愛に、劇的な展開はない。
それは、ささやかな日常の中に、自然に息づいている。
朝の静けさ。
すれ違いざまの会釈。
手をつながなくても、そこにある温もり。
加藤諦三は語る。
「愛は叫ぶものではなく、黙って感じるもの。語られる愛は、しばしば愛ではない。」
成熟した愛とは、自由であり、静けさであり、そして孤独の中に灯る小さな火である。
それは決して華やかではないが、確かに人を生かし、癒し、強くする。
愛とは、限界を知り、なお選び続ける勇気である。
「もう無理だと思ったら、手放していい」
そう言われると、どこか逃げているようで、負けているようで、後ろめたさを覚える人は少なくない。
だが、加藤諦三教授はこう語る。
「手放すことは、敗北ではない。それは、新たに自分を取り戻すことでもある。」
愛を抱きしめるには、同時に「手放す覚悟」が必要である。
赦しと手放し。これらは、愛の成熟に不可欠な要素であり、「限界を超える愛」ではなく、「限界を知ったうえで選び続ける愛」への入り口である。
多くの人が、別れを告げられた瞬間に「こんなに好きなのに」「どうしてうまくいかないの?」と涙をこぼす。
その感情はたしかに“深い”ように見える。だが、その涙の正体は「愛」ではなく、「執着」かもしれない。
加藤諦三は、「執着」と「愛」の違いを次のように説いている。
「愛は相手の幸福を願うことであり、執着は“自分の”安心のために相手を支配することだ。」
つまり、執着とは「自分の痛みを避けるために相手を手放せない」という心の動きである。
そこには相手を理解しようとする姿勢や、自由を尊重する精神はない。あるのは、「失うことの恐怖」だけである。
「もう十分頑張った」と言えることが、大人になるということだ。
加藤は、「愛するということは、愛されなくなるかもしれないというリスクを引き受けること」であり、同時に「去っていく相手を、黙って見送る覚悟」でもあると語る。
たとえば、ある50代の男性Hさんは、20年以上連れ添った妻から突然離婚を切り出された。理由は「もう心が通わないと感じるから」。彼はショックを受けながらも、最終的には妻の申し出を受け入れた。
「今まで一緒にいてくれてありがとう。あなたがあなたらしくいられる人生を歩んでください。」
そう言って、彼は涙をこらえながら別れを受け入れたという。
そこにあるのは、怒りでも懇願でもない。ただ、「愛する相手の決断を尊重する」という静かな尊厳だった。
この姿勢こそが、加藤が語る「成熟した愛の手放し」である。
「私の人生は、あの親のせいでめちゃくちゃになった」
そう思っている人は少なくない。実際に、加藤諦三もその著作のなかで、親との関係がその後の愛に与える影響の深刻さを繰り返し語っている。
だが、加藤はまた、こうも言っている。
「人間は限界のある存在である。そして、親もまた、不完全な人間である。」
完璧な親など存在しない。
だが、それを“許す”ことができたとき、人はようやく過去から自由になれる。
ある女性Yさん(40代)は、幼いころから母親に感情的に否定され続けてきた。大人になってからも、「どうしてあんな親のもとに生まれたのだろう」と苦しんでいた。
しかしある日、母の若い頃の手紙や日記を偶然読んだことをきっかけに、彼女は母の中にもまた不安や孤独があったことを知る。「この人も精いっぱいだったのだ」と思えたとき、怒りは涙に変わり、彼女の中で何かが静かに解けていったという。
赦すということは、「過去の過ちを肯定する」ことではない。
それは、「過去を握りしめ続けない」こと。
赦しは、誰かのために行うものではなく、自分自身を自由にするための決断である。
「諦める」と聞くと、ネガティブな印象を持つ人も多い。だが、加藤諦三は「諦めることこそが成熟の証」であると説く。
「人はすべてを手に入れることはできない。その事実を認めたとき、人生ははじめて軽くなる。」
理想の相手、完全な関係、永遠の愛――。それらは、決して叶わぬ幻想である。
しかし、幻想を諦めることで、現実の中の「ささやかな幸福」に目を向けられるようになる。
ある男性はこう語った。
「若い頃は、恋人とすべてを共有したいと思っていた。どんな気持ちも、どんな夢も。でもいまは違う。彼女が何を考えているか、全部は分からなくてもいい。ただ、隣で笑ってくれればそれで十分なんだ。」
このような心境の変化は、「手放したことで見えてくる本質」を象徴している。
加藤は、人間の“限界”を知ることが、むしろ愛を深めると述べている。
「人は死すべき存在である。その事実があるからこそ、人は他者を本気で愛せる。」
永遠ではないからこそ、今日の笑顔を大切にできる。
完全な人間がいないからこそ、相手の不器用さを抱きしめられる。
手放さなければならない日がくるからこそ、いまを慈しむことができる。
限界があるということは、失うということでもある。
だが、失うことを恐れるのではなく、それを前提とした上で「それでも愛する」という選択をすること――それが、人間として最も尊い営みなのではないか。
加藤諦三の思想の根底には、「人間は限界のある存在である」という認識がある。
そしてその限界を**“受け入れること”こそが、人間の成熟であり、愛の成熟でもある**と語っている。
「強い人間とは、限界を超えようとする人ではなく、限界を知ったうえでなお人を愛せる人である。」
執着を手放すこと。
相手を赦すこと。
完璧をあきらめること。
それらは一見、弱さに見えるかもしれない。だが、それこそが最も強く、最も自由で、最も人間らしい愛のかたちである。
「人間には限界がある」
それは、加藤諦三教授の思想を貫く一本の太い根である。
私たちは完全ではない。愛もまた、完全ではない。
しかし――その限界の中にこそ、最も豊かな可能性が宿っている。
それが、加藤が生涯をかけて説いてきた「愛と人間存在の本質」である。
「どうしてわかってくれないの?」「こんなに尽くしているのに…」
誰もが一度は、愛する相手に対してそう叫びたくなる瞬間がある。
それは、相手に“理想”を求めているからだ。
「もっと優しく」「もっと正直に」「もっと私を見てほしい」
その“もっと”を満たすことで、愛は完全になると信じている。
しかし、加藤諦三はこう語る。
「愛とは、相手が“もっとこうであればいい”と思っているうちは、決して始まらない。」
愛は、「それでも」から始まる。
理解されなくても、応えてもらえなくても、それでもなお関わろうとする意志――
それが、限界を受け入れた者だけが持つ“成熟の愛”である。
加藤が繰り返し説くのが、「自己受容」と「他者受容」のつながりである。
人は、自分を許せたときにしか、他人を許せない。
人は、自分を認めたときにしか、他人の違いを受け入れられない。
つまり、自己肯定こそが、愛の原点なのだ。
ある女性はこう語った。
「ずっと、誰かに“あなたはそのままで素晴らしい”と言ってほしかった。だけど、あるとき気づいたんです。誰よりも自分自身が、そう言ってあげるべきだったんだって。」
この言葉は、加藤が何度も語ってきた核心を見事に言い当てている。
自己否定のままでは、どれだけ他者からの愛を注がれても、決して満たされることはない。
むしろ、愛を“測る”ようになり、いつまでも「足りない」と感じてしまう。
愛は、完全である必要はない。
むしろ、完璧であろうとすることが、愛を壊す。
「喧嘩をしないカップル」
「記念日を忘れない夫婦」
「気持ちを100%理解し合える恋人」
こうしたイメージは、憧れの対象であると同時に、愛に幻想を抱かせる罠でもある。
加藤諦三は、こう語る。
「人間関係において最も大切なのは、“誤解されても関係が壊れない”という信頼である。」
つまり、誤解も、衝突も、沈黙も、「限界の一部」である。
その“限界ごと受け入れる”という態度があってこそ、愛は静かに、しかし確実に育っていく。
「相手は永遠にそばにいてくれる」
「愛はずっと変わらずに続く」
――そんな確信は、この世界には存在しない。
人は変わるし、すれ違うし、別れることもある。
それどころか、死別という“絶対的な別れ”すら避けられない。
それでも、今日この瞬間、「あなたを愛そう」と選ぶこと。
この選択の積み重ねこそが、愛の真実であり、可能性なのだ。
「限界があるからこそ、人は覚悟を持って愛を選ぶ。そして、その覚悟が、愛に意味を与える。」
加藤のこの思想は、決して悲観ではない。むしろ、人間の尊厳と可能性に満ちた、力強い希望である。
人間が不完全でなかったら、慰めも励ましも必要ない。
失敗しなければ、許し合うことも、理解しようとする努力も生まれない。
だが、まさにその“欠け”こそが、私たちに「優しさ」や「想像力」を与えてくれる。
ある母親は、発達に特性をもつ子どもを育てていた。
他の子と比べてできないことが多く、何度も涙を流したという。
けれど、ある日ふと「この子は、この子なりにちゃんと世界を感じている」と気づいた瞬間から、彼女の視点は変わった。
「この子が私に、愛とは何かを教えてくれた気がします。」
人間の不完全さ――それは、愛の原動力であり、人間が人間である理由なのかもしれない。
愛とは、相手を「変えよう」とすることではない。
「そのままのあなたを、受け止める」ことである。
愛とは、全てを得ることではない。
「失うかもしれない」ことを知りながらも、「それでも」と関わり続ける意志である。
そして何より、愛とは「限界」を知った者にしか、たどり着けない場所にある。
加藤諦三は、その人生を通して、私たちに問い続けた。
「本当の愛とは何か」
「人はどのようにして、人を愛せるようになるのか」
その答えは、シンプルで、しかし深く、人生に根ざしている。
「愛とは、限界を受け入れることで広がるもの。限界の中にこそ、人間らしい豊かさがある。」
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