「花咲く季節に、未来のパートナーと出会い……
amo(アーモ)結婚相談所(大阪府)
2025.04.06
ショパン・マリアージュ
――「強がる人ほど、心の奥に深い痛みを抱えている」
ある冬の夕方、東京の喧騒の中で、私はひとりの中年男性と面会していた。彼は一流大学を卒業し、大手企業に勤め、社内でも頭角を現し続けたいわゆる「成功者」だった。しかし、その日、彼の顔には疲労と虚無が濃く浮かんでいた。
「自分でも、何が苦しいのか、わからないんです。ただ、毎日が空っぽなんです」
この言葉に、私は加藤諦三の著書の一節を思い出さずにはいられなかった。
「自分を愛せない人は、強がるしかない。そしてその強がりは、やがて自分を壊す」
劣等感とは、他人と比較して自分が劣っていると感じる感覚である。多くの人は、この劣等感を「克服すべきもの」として努力し、「もっと頑張る」「もっと成果を出す」ことで乗り越えようとする。しかし、加藤諦三はその構造に警鐘を鳴らす。
「劣等感を動力源にして成功しても、心は癒されない。それは、自己否定のエネルギーで動く人生だからだ」と。
つまり、人はしばしば、自分を「ダメだ」「もっと価値がない」と信じているからこそ、過剰に努力し、周囲から認められようとする。だが、その根底にある「自分を愛せない感情」が癒されない限り、どれだけの称賛や地位を手に入れても、心の中は空虚のままなのだ。
加藤諦三の理論において、自己否定はしばしば「他者との比較」から始まる。他人と比べ、自分にはないものにばかり目を向け、「自分には価値がない」と感じる。だが、その比較の基準そのものが、往々にして他人の価値観であり、本人の内なる声ではない。
「本当は、何がしたいのか」「どう生きたいのか」という問いは、劣等感に支配された人には難しい。それは、自分の内面を見る勇気が必要だからだ。自己否定の強い人ほど、自分の感情よりも「どう見られるか」に支配されている。他人に劣っていると感じるたびに、自分を責め、否定し、無理を重ねる。そこに「自分に気づく」余白など、最初から用意されていない。
冒頭で触れた男性は、部長職に就き、社内でも常に評価されていた。彼は人前でミスをしない。いつも冷静で論理的。部下からは「完璧な上司」と評されていた。だが、彼には「休む」という概念がなかった。休日でもメールを返し、深夜でも会議の資料を読み込む。自分に厳しくあることが、自分の存在価値だと信じていた。
「いつも、どこかでビクビクしているんです。自分が無能だとバレたらどうしよう、って」
それが彼の本音だった。彼は「できる自分」を演じ続けることで、自分に価値があると思い込もうとしていたのだ。しかしその根底には、「本当の自分には価値がない」「休んだら、捨てられるかもしれない」という深い恐れがあった。
加藤氏は言う。
「劣等感のある人は、自分を偽って生きる。そして、偽り続けた先にあるのは、燃え尽きと孤独である」
まさにその通りだった。彼の「完璧さ」は、幼い頃に厳格な父親に「ちゃんとしろ」と言われ続けて育ったことに起因していた。自分を認めてもらうためには、常に「良い子」でいなければならなかった。その価値観が、大人になった今も彼を縛っていたのだ。
加藤諦三が強調するのは、「強がっている人ほど、内面には深い痛みがある」という事実だ。強く振る舞う人ほど、実は脆く、助けを求める術を知らない。なぜなら、助けを求めることは「弱さの露呈」だと信じているからだ。
この構造は、特に日本社会では根深い。世間体や役割意識が強く、「弱音を吐くことは恥」という文化の中で育つと、人は感情を抑圧し、自分の弱さを許せなくなる。その結果、自分に対しても他人に対しても、どこかで苛立ちや冷たさを持ってしまう。
加藤氏はこれを、「自己否定の人間は、他人を否定しやすい」と喝破する。
では、どうすればこの劣等感と自己否定のスパイラルから抜け出すことができるのか。それは、「自分に気づく」こと――つまり、今まで見ないようにしてきた自分の弱さや痛みに、優しく光を当てることから始まる。
そのプロセスには、「感情を取り戻す」ことが不可欠だ。怒り、不安、孤独、嫉妬――そうした感情を否定せず、「それが自分なんだ」と認めること。加藤諦三は、そうした感情こそが「本当の自分に通じる扉」であると述べている。
かつての成功者だった彼は、セラピーの中で初めて「寂しい」という言葉を口にした。それは、彼の人生で最も率直な告白だった。そしてその瞬間から、彼の人生は静かに変わり始めた。役職や業績ではなく、「今、何を感じているか」を大切にするようになったのだ。
劣等感は、誰にでもある。自己否定も、人間である以上、避けられない。だが、その感情に支配されるか、それとも受け入れて共に生きるかで、人生の質は大きく変わる。
加藤諦三は、こう語る。
「本当の強さとは、弱さを受け入れることである。強く見せることではない」
本章では、劣等感と自己否定の心理構造、そしてそれが人の生き方をいかに支配するかについて考察した。次章では、さらにその奥にある「愛されたい欲求とその歪み」に焦点を当て、自分を偽る原因としての“愛情の渇望”に迫っていく。
――「愛されたいけれど、愛されるのが怖い」
「どうしてこんなにも、人の目が気になるのだろう」「どうして誰かに好かれていないと、不安になるのだろう」――そう感じたことのある人は少なくないだろう。表面上は自立していても、どこかで常に「他者からの承認」を求めてしまう。この根底にあるのが、人間にとって最も基本的な感情の一つ、「愛されたい」という欲求である。
加藤諦三はこの欲求を、心理的問題の根源としてたびたび取り上げる。彼は言う。
「人は、愛されたいという願いが満たされなかったとき、その飢えを隠すために、さまざまな仮面をつける」
愛されたい。しかし、それが満たされない。あるいは、満たされることを恐れている。そうした矛盾した心の動きが、人間関係の苦しみを生むのだ。
愛されたいという欲求は、特に幼少期において形成される。赤ん坊は泣けば母親が来てくれる。お腹が空けばミルクをもらえる。その一つひとつのやり取りが、「自分は愛されるに値する存在だ」という感覚を育てていく。
しかし、加藤諦三が指摘するように、その時期に「甘えること」を十分に許されなかった子どもは、愛を求める方法がわからなくなる。親が忙しすぎたり、冷たかったり、過剰に干渉的であったりすると、子どもは「自分のままでは愛されない」と感じ、「いい子」を演じ始める。
「甘えを否定された子どもは、大人になっても愛し方がわからない。愛されることすら怖くなる」
こうして、愛されたいのに愛されるのが怖い――という逆説的な心理構造が生まれる。これが、大人になってからの恋愛や人間関係に、歪みとなって現れる。
ある30代の女性、Aさん。彼女はいつも「好きな人のために何でもしてしまう」と言っていた。料理を作り、LINEは即レスし、相手のために予定を調整する。だが、付き合うたびに、なぜか相手は離れていく。
「何がいけないんでしょうか?私は、こんなに愛しているのに」
私は、加藤諦三のある一節を思い出した。
「尽くしすぎる人は、自分を愛していない。だから、愛を与えることで自分の存在価値を証明しようとする」
Aさんの「尽くす」は、実は「愛してほしい」という叫びだった。彼女は「自分が役に立たなければ、愛されない」と信じていた。だから、常に“相手のため”に自分を犠牲にしてしまう。だが、そこにあるのは対等な愛ではない。無意識の「取引」なのだ。
その関係に相手は疲れてしまい、離れていく。そして彼女はまた、自分を責める。「やっぱり私は、愛される価値がないんだ」と。
ここにあるのは、まさに「愛されたい欲求の歪み」だった。
加藤氏が特に鋭く指摘するのは、「愛されたい」という気持ちが強すぎると、人は自分を見失うという点である。人に好かれたいがために、自分の感情を押し殺し、好かれる“キャラ”を演じ続けてしまう。これは、まさに“自己喪失”の状態である。
「自分を偽ってまで愛されようとすることは、愛ではなく依存である」
自己喪失の人間は、相手に合わせすぎる。NOと言えず、自分の欲求を後回しにする。そして、それが満たされないと、心の中で怒りが渦巻く。しかし、その怒りを表現することも怖くてできない。なぜなら、怒れば愛されなくなると思っているからだ。
こうして人は、怒りを抑え、悲しみを否定し、無理に笑顔を作り、苦しんでいく。
愛されたいという欲求を健全な形で昇華させるには、まず「自分を愛する」ことが必要だと加藤諦三は説く。それは、自分の感情を大切にし、自分の欲求を認め、自分の弱さを許すことから始まる。
Aさんも、カウンセリングを通して、自分の「空虚な愛情表現」に気づいていった。そして、初めて「自分の欲求」に目を向けるようになった。彼女は恋愛以外の時間も大切にするようになり、自分の趣味や友人関係を見直した。そして、恋愛の中でも「NO」と言えるようになった。
すると不思議なことに、その後に出会った相手とは、無理のない関係を築けるようになったという。彼女の愛は、「見返りを求める依存」から、「尊重し合える対等な関係」へと変わっていたのだ。
「愛されたい」と願うことは、決して悪いことではない。むしろ、それは人間として自然な欲求である。ただ、その願いが強すぎて、自分を見失ったり、歪んだ愛し方にすり替わったとき、人は苦しみ始める。
加藤諦三は、こう語る。
「本当に人を愛せるのは、自分を愛せる人間だけである」
愛は、他人からもらうものではなく、自分の中から生まれるもの。その愛を育むには、自分の感情に正直になり、過去の傷に向き合い、ありのままの自分を受け入れる勇気が必要だ。
次章では、愛が満たされなかった結果として生まれる「怒りと攻撃性」に注目し、その裏にある自己否定と孤独の構造を紐解いていく。
――「怒る人ほど、本当は傷ついている」
「怒り」は、誰にでもある自然な感情である。だが、加藤諦三はこう語る。
「怒りは、心の深い部分にある悲しみと寂しさの仮面である」
この言葉は、人間関係での怒りに悩むすべての人に向けた、静かで鋭い洞察である。私たちは往々にして、怒っている人を見ると「気性が荒い」「性格に問題がある」と感じてしまう。しかし、加藤氏はその表面的な態度の背後にある、深い内的苦悩に注目する。
怒りとは、本来「自分が傷ついた」と感じたときに生まれる感情だ。だがその「傷ついた」という感情を認識すること、あるいはその原因となる「自分の弱さ」や「孤独」を受け入れることは、非常に苦痛を伴う。そのため人は、それを「怒り」という形に変換してしまうのだ。
怒りはしばしば、自己防衛の手段として使われる。特に自尊心が脆弱な人、自分を心の底で否定している人ほど、怒りやすい。なぜなら、彼らは「攻撃されている」と感じやすく、「自分は認められていない」「馬鹿にされている」と被害的に受け止めやすいからだ。
加藤諦三はこう述べる。
「怒りっぽい人は、自分を深く信じていない。そして、その不安を他人に投げつけることで、バランスを取ろうとする」
つまり、怒りとは「不安」の変形であり、「孤独」や「無力感」の代償である。
あるIT企業で働く40代の男性課長、Bさんは、社内で「短気な上司」として知られていた。部下の報告にすぐ声を荒げ、会議でもイライラを隠せず、常に張り詰めた空気を作っていた。
ある日、部下のCさんが、業務で些細なミスをした。Bさんは激昂し、その場で叱責を始めた。Cさんは萎縮し、その後の業務パフォーマンスは急激に落ちていった。だが、Bさんはそれすらも「やる気がない」と決めつけ、さらに追い詰めていった。
この悪循環の根底には、Bさんの「不安」があった。彼は幼少期、厳格な父親の下で育ち、「ミスは許されない」という価値観を植え付けられていた。大人になってからも「できる自分」でなければ、存在意義がないと信じていたのだ。部下のミスは、自分の管理能力の欠如として直結し、それが「自分には価値がないのではないか」という無意識の不安を刺激した。その不安が、怒りとなって噴き出していた。
Bさんの怒りの裏には、「完璧でなければならない」という自己否定が潜んでいたのだ。
加藤氏が何度も強調するのは、「怒りは二次感情」であるという点だ。一次感情――すなわち、最初に感じていたのは、悔しさ、悲しみ、恥、寂しさである。だが、これらの感情は人間にとって極めて脆弱なものであり、そのままでは耐えられないため、防衛的に怒りへと転化される。
怒りを抑えることが大切なのではない。むしろ、その奥にある本当の感情を見つめることが、真の癒しにつながる。
「怒りに気づくことは、自分の心の傷に気づくことである。そしてその気づきこそが、回復の第一歩になる」
あるセッションで、Bさんはこう漏らした。
「本当は、誰かに『それでも大丈夫』って言ってほしかっただけなんです。でも、それが言えなかった」
この一言に、すべてが詰まっていた。彼は、ただ「許されたかった」のだ。だがそれを言えば、弱さが露呈する。それが怖くて、怒りで誤魔化していた。
怒りは連鎖する。怒られた者は、次にまた誰かに怒りを向ける。上司に怒られた部下が、家に帰って家族に当たる。これは心理学で「置き換え」と呼ばれる現象であり、加藤氏もたびたびこのメカニズムを警告している。
この連鎖を断ち切るには、自分の感情に気づくしかない。怒りを「正当化」するのではなく、「なぜこんなにも怒りが湧いてくるのか」を問い直すことだ。
たとえば、「自分はなぜこの部下の態度にこれほど苛立つのか?」と。そこに、過去の傷やトラウマが隠れていることも少なくない。
怒りは、決して悪ではない。むしろ、それは「助けを求めている自分の叫び」である。だが、その声に耳を傾けずに怒りを爆発させるとき、それは他者を傷つけ、自分をも傷つける刃となる。
加藤諦三は言う。
「怒りは、心の叫びである。その声に耳を傾けたとき、人は初めて、自分を癒すことができる」
怒りの裏にある感情に気づいたとき、人は強くなれる。それは「強く見せる」強さではなく、「弱さを受け入れる」真の強さだ。
次章では、さらにこの怒りや自己否定を乗り越えるための核心、「自分を許す」ことの難しさについて考察する。
――「一番厳しいのは、自分自身だった」
「誰に責められたわけでもないのに、なぜ私はこんなに自分を責めてしまうのだろう」
心のどこかでそうつぶやいた経験のある人は少なくないはずだ。ミスをした自分、誰かを傷つけたかもしれない自分、思い通りにできなかった自分に対して、深く苛立ち、無言の罰を与え続ける――それは他人から見えない、静かな自己攻撃である。
加藤諦三は、こう言う。
「自分を許せない人は、常に何かを『償おう』としながら生きている。そしてその償いは、決して終わることがない」
自分を許すこと。それは一見、簡単なようでいて、実は最も困難な心理的課題の一つである。多くの人が、自分を責めることによって、「自分を律している」「反省している」と感じる。しかし、その裏には「自分には愛される価値がない」という深い無意識の自己否定があるのだ。
加藤氏は、自分を許せない人の典型的な特徴として「完璧主義」を挙げている。完璧でなければ価値がない、常に最善を尽くさなければ愛されない――その信念が、人を追い詰める。
完璧主義者は、失敗を「人間らしさ」ではなく、「存在の否定」として受け止める。そのため、たった一つのミスでも自分を強く責め、罪悪感を抱く。そうして、自己罰的な思考に陥っていく。
「完璧でなければ、自分を愛せない。そんな心は、いつも飢えている」
自分を許せない人は、他人の欠点にも厳しくなる。他人に対して寛容になれないのは、実は自分に寛容でないからである。加藤氏は、それを「内なる声の残酷さ」と表現する。
Dさんは、30代の女性で、子どもの頃から「優等生」として育ってきた。成績は常にトップクラス。誰よりも礼儀正しく、努力家だった。大学を出て一流企業に入社し、順調なキャリアを歩んでいた――表面上は。
だが、あるとき突然、出社できなくなった。理由もなく涙が出る、眠れない、食欲もない。いわゆる「燃え尽き症候群」だった。精神科を受診しても、はっきりした原因は見えなかった。
セラピーの中で彼女が初めて口にした言葉は、
「何の役にも立たない自分に、存在価値があるとは思えないんです」
だった。
彼女は、自分を許すということを知らなかった。常に「もっと頑張らなきゃ」「まだ足りない」と自分を追い立てていた。ミスをすれば、「こんな自分はダメだ」と責め、休んでいる自分にすら罪悪感を抱いていた。
彼女の人生には、「ただそこにいるだけで愛される」という経験がなかった。だからこそ、成果や努力を通じて、自分を証明し続ける必要があったのだ。
加藤諦三は、自分を許すということを「あるがままの自分を受け入れること」と定義する。それは、失敗も弱さも、すべてが「自分」であると認める勇気だ。
「不完全な自分と向き合い、それでも自分を愛せるか。それが、人間としての成熟である」
Dさんは、徐々に自分の感情を言葉にすることを始めた。「休んでもいい」「失敗しても私は存在していい」という言葉を、心の中で繰り返すようになった。最初は信じられなかったその言葉が、少しずつ彼女の中に染み込み、自分の輪郭を取り戻していった。
人は、自分の弱さを隠し続けることでしか、愛されないと思っているうちは、決して自由になれない。だが、弱さも含めて「それでも私はここにいる」と言えるようになったとき、人は初めて、本当の意味で自分を取り戻すのだ。
加藤氏は、自分を許すためにはまず「自分の感情に気づく」ことが必要だと言う。怒り、悲しみ、恐れ――そうした感情は、無視されたり否定されることで、深く抑圧されてしまう。だが、その感情こそが、「自分」という存在の証なのである。
また、自分の過去を振り返り、どこで「自分には価値がない」と思い込んだのか、その原点に立ち返ることも助けになる。多くの場合、それは親や教師、あるいは周囲の無意識な言葉から始まっている。
「自分を責める声は、自分の声ではない。過去に誰かがあなたに向けた否定の声だ」
それに気づいたとき、人はようやく、自分と他人の境界を引き、「私は私」と言えるようになるのだ。
自分を許すということは、「もう、頑張らなくていい」と自分に言ってあげることである。弱いままでも、失敗しても、それでも「いていい」と、自分に言ってあげること。
加藤諦三は、こう結ぶ。
「人は、自分を許したときから、他人にも優しくなれる。赦しこそが、人間関係を変える鍵である」
自分を許せないまま生きる人生は、どこかで必ず疲弊する。しかし、自分を許すことで、人生は少しずつ、だが確実に変わっていく。そこには、無理に頑張らなくても愛される、安心感と穏やかさがある。
次章では、こうした赦しの先にある、「真の自立とは何か」について考えていく。他者との健全な距離を保ちつつ、自分の人生を生きるためには何が必要なのか――その問いを、共に掘り下げていこう。
――「孤独を受け入れたとき、人は本当に自由になる」
「あなたは自立していますか?」と問われたとき、私たちは往々にして、経済的に自立しているか、社会的に依存していないかを基準にして答えようとする。だが加藤諦三は、この問いにまったく異なる角度から切り込む。
「自立とは、自分の感情を他人に左右されずに生きることである」
つまり、真の自立とは「心理的な自立」なのだ。他人からどう見られるかに依存せず、自分の感情を押し殺さず、恐れずに表現できること。他者に依存せず、自分で自分を支えること。これは、単に一人で生活できるかどうか以上に、はるかに深く、本質的な問いである。
加藤氏によれば、人はしばしば無意識のうちに他者に依存している。たとえば、誰かに「認めてもらいたい」「必要とされたい」「見捨てられたくない」という願望。これらは一見、自然で健全な感情に見えるが、強すぎるとそれは「自分の存在を他人に預ける」ことになってしまう。
「人に依存する人は、自分の人生の責任を他人に委ねてしまっている」
この依存は、表面的には愛情やつながりに見えるが、実際には他人を「自分の心を埋める道具」として使っている場合が多い。そして、その人が自分を満たしてくれなければ怒り、絶望し、また別の誰かに依存する――この連鎖が続いてしまう。
ここで重要なのは、「自立しているように見える人」が、必ずしも真の意味で自立しているとは限らないという点だ。加藤氏はこの状態を「疑似自立」と呼ぶ。たとえば、他人に頼ることを極端に嫌い、「人に迷惑をかけてはいけない」と自分を律しすぎる人。こうした人は、一見しっかりして見えるが、その背景には「愛されなかった過去への恐怖」が隠れていることが多い。
「人に頼れないのは、自分を信じていない証拠である」
疑似自立の人は、実は心の奥に強い寂しさを抱えている。だが、それを感じるのが怖くて、ひとりで頑張りすぎてしまう。結果として、疲弊し、心がどこかで折れてしまう。
Eさんは20代後半の男性で、都内の大学院に通いながら就職活動をしていた。彼は、誰から見ても「優秀でしっかり者」だった。だが、心の中では常に不安に苛まれていた。「親に期待されている」「失敗したら恥ずかしい」「人に頼るのは弱いことだ」――そんな思い込みに支配されていた。
彼の父親は厳格な人物で、「男は弱音を吐くな」「自分のことは自分でやれ」が口癖だった。母親もまた、「あなたなら大丈夫よ」と言いながら、感情面での支えにはあまりならなかった。
Eさんは、常に「自分で何とかしなければ」と思い込んでいた。だがあるとき、就職活動でつまずき、初めて心療内科を訪れた。そのとき、医師から「あなたは十分やってきましたよ」と言われ、彼は泣いた。
彼はその後、初めて親に電話し、「就活がうまくいかない。ちょっとつらい」と打ち明けた。それまで、どんなことも「大丈夫」と言い続けてきた彼にとって、それは勇気ある行動だった。
「本当の自立は、助けを求められることでもある」
彼はその経験を経て、「親の期待を背負うこと」と「自分の人生を生きること」を分けて考えられるようになった。そうして、彼は初めて「自分の足で立つ」ことができるようになったのだ。
真の自立は、「他人と距離を取ること」ではない。それは、「自分の領域」と「他人の領域」を区別し、それを尊重するということである。境界線が曖昧な人は、他人の問題に必要以上に巻き込まれたり、自分の責任でないことまで背負い込んでしまう。
加藤諦三は言う。
「自立した人間は、他人の不機嫌に振り回されない」
たとえば、家族がイライラしていても、自分まで不機嫌になる必要はない。職場で誰かがミスをしても、自分の存在価値に関わるわけではない。他人の感情と自分の感情を切り離すことで、心の平穏が保てる。
この健全な境界を保てるようになって初めて、人は本当の意味で自由になる。他者に依存せず、同時に他者を否定もせず、共に存在する。それが、加藤氏の語る「成熟した自立」なのである。
自立とは、孤独と向き合う力である。誰にも頼らずに生きることではなく、「誰かに頼らなくても、自分は存在していい」と信じられること。その自己肯定感こそが、自立の本質なのだ。
加藤諦三は、こう締めくくる。
「孤独を避けようとする人間は、いつまでも他人に振り回される。しかし、孤独に耐えられる人間は、自分の人生を生きることができる」
次章では、そのような「本当の自分」と出会うために必要なプロセス――自分の感情を見つめ、偽りの自分を手放していく「気づきのプロセス」について、具体的な技法と事例をもとに考察していく。
――「偽りの自分を脱ぎ捨てたとき、心は自由になる」
「今の自分は、本当に自分なのか?」
そんな問いを胸に抱いたことはあるだろうか。忙しい日常、人間関係、仕事のプレッシャーに追われ、気づけば“周囲の期待に応える自分”を生きている。だが、その自分が、本当に自分なのかと問われると、言葉に詰まってしまう。
加藤諦三は、こうした“仮面をかぶった自分”を「演技された自己」と呼ぶ。そして、人間の苦しみの多くは、この“偽りの自分”と“本当の自分”のズレにあると喝破する。
「自分に気づいていない人は、他人の人生を生きている」
本当の自分に近づくとは、このズレを修正していく行為である。決して一朝一夕にできることではない。だが、そのプロセスこそが、癒しであり、自由であり、生きる実感の回復である。
加藤氏が一貫して説いてきたのが、「気づき(Awareness)」の力である。気づくとは、「感情」「思考」「行動の癖」を客観的に見つめる力だ。怒りを感じたとき、「私はなぜこんなに怒っているのか」と問い直す。誰かに依存したくなったとき、「これは本当に愛なのか」と立ち止まる。そうした一つひとつの内省の積み重ねが、自分自身への理解を深めていく。
「気づくことは、すべての心理的成長の第一歩である」
加藤諦三は、気づくことによって人は「自分が変えられないもの」と「変えられるもの」を区別できるようになり、人生に対する姿勢そのものが変化すると述べている。
本当の自分に近づくために最も重要なのは、「感情を取り戻す」ことだ。加藤氏によれば、幼少期に感情を否定されて育った人は、大人になると自分の本音がわからなくなってしまう。悲しいときに「泣くな」と言われ、怒ったときに「そんなこと言うな」と責められてきた結果、感情を閉じ込めて生きるようになる。
しかし、その抑圧された感情こそが「本当の自分」への扉である。怒り、悲しみ、寂しさ、喜び――どれも「今、自分が何を感じているのか」に正直になることが、自己理解への第一歩だ。
たとえば、「イライラしている」と気づく。その背景にある「本当は寂しかった」「認められたかった」という感情にまでたどり着いたとき、人は自分に優しくなれる。
Fさんは、50代の男性で、家庭も仕事も持ち、社会的には安定した生活を送っていた。しかし、内面では常に空虚感に悩まされ、「何のために生きているのかわからない」と語っていた。
彼は、自分の感情を語ることが極端に苦手だった。怒りを感じても黙り込む、悲しくても笑ってやり過ごす。彼にとって「感情」は、ただの“やっかいなもの”だった。
あるとき、カウンセラーから「毎日、5分でいいから日記を書いてみてください」と言われた。最初は「今日は晴れていた。仕事は普通だった」など事実だけだったが、次第に「今日はなんだか疲れた」「あの一言がちょっと嫌だった」と、少しずつ感情が現れ始めた。
1ヶ月後、彼はこう綴っていた。
「自分は、いつも誰かに認めてもらいたかった。だけど、それを言うのが怖くて、ずっと平気なふりをしてきた」
この一文を書いた夜、彼は久しぶりに涙を流した。自分の気持ちを、初めて自分で受け止めたのだ。日記という形であっても、内面と向き合うことが「本当の自分」への道となった。
私たちは誰しも、社会の中で何らかの「役割」を演じている。親として、上司として、部下として、パートナーとして――その役割自体は必要なものである。だが、その役割と“自分の本質”がかけ離れたままでは、心は疲弊していく。
加藤諦三はこう語る。
「役割を演じ続ける人生は、いつか空虚になる。仮面を外す勇気を持ったとき、人は本当の意味で生き始める」
仮面を外すとは、「弱さを見せる」ことであり、「他人にどう思われるかを手放す」ことでもある。そしてそれは、他者とのつながりを断ち切ることではなく、より深く“人間同士”として関係を築くことを意味する。
最後に触れておきたいのは、「本当の自分は最初から完成されているものではない」という視点だ。加藤氏は、「本当の自分」とは“発見されるもの”であると同時に、“育てられていくもの”でもあると述べている。
気づき、感じ、受け止め、手放し、選び直す――そうした日々のプロセスの中で、「これが私だ」と思える自分が少しずつ形づくられていく。それは時に揺らぎ、時に迷うが、それこそが「生きている実感」に他ならない。
「本当の自分に気づく」ことは、人生のすべてを変える。加藤諦三が長年伝えてきたのは、人生とは「外的な成功」ではなく、「内的な一致感」を得る旅であるということだ。
「自分の中にある感情、欲求、傷つき、願いを、他人ではなく“自分自身”が受け止めてあげるとき、人は真に自由になる」
本当の自分を生きることは、楽な道ではない。だが、それは確かに“自分の人生”である。その道の先には、他人に認められる必要もなく、比較されることもない、安らかな心が待っている。
次章では、この“自分に気づく”プロセスを経た先に、どのような人生の変化が生まれるのか――人が心から他者とつながるとはどういうことなのかを、実例とともに描いていく。
――「人は、自分に正直に生きたとき、他人ともつながる」
「自分に気づく」とは、それまで見ないふりをしてきた自分の感情や欲求、弱さと向き合うことだ。多くの人は、無意識のうちに仮面をかぶり、役割を演じて生きている。だが、その仮面の奥には、誰よりも純粋で傷つきやすく、愛されたいと願っている「本当の自分」がいる。
加藤諦三は繰り返し語る。
「自分に気づいた人は、人の目を気にしなくなる。そして、そのとき初めて他人と真に関わることができる」
人は、他人の期待を満たすために生きている限り、本当の意味での自由を得ることはできない。だが、自分の感情に気づき、自分の価値を他者の評価に委ねないようになったとき、人はまるで新しい人生を歩み始めたかのような軽やかさを手に入れる。
自分に気づいた人は、強くなる。しかし、それは他人に打ち勝つような「攻撃的な強さ」ではなく、「逃げずに自分と向き合える強さ」だ。それは決して目立つものではない。だが、内面に静かな芯が通り、他人の言葉に振り回されず、自分の感情を尊重できるようになる。
加藤氏が繰り返し伝えているように、こうした人間は他人にも優しくなれる。なぜなら、他人に対して怒りや敵意をぶつける必要がなくなるからだ。他人を責める人は、自分を責めている。だが、自分を許せた人は、他人を許すこともできる。
「自分の中に平和を見出した人は、争いを求めない」
そのような人間の周囲には、自然と穏やかな人間関係が生まれる。気づきは、まず内面を変え、そして外の世界との関わり方までをも変えていく。
Gさんは40代の女性で、長年パートナーとの関係に苦しんでいた。彼女は常に相手に合わせ、自分の感情を飲み込み、ただ「嫌われたくない」という一心で生きていた。その結果、心身のバランスを崩し、無気力と不安に支配されるようになっていた。
カウンセリングの中で、彼女は初めて自分の本心に触れることができた。
「私は、本当はもっと自分を大事にしてほしかった。でも、その気持ちを持つこと自体が、わがままだと思っていた」
この気づきは、彼女にとって革命的なものだった。それまで「相手を優先するのが愛だ」と信じていたが、実はそれは「愛されたい」という渇望の裏返しであり、「自分を抑えなければ存在を許されない」という幼少期の信念の延長だったのだ。
彼女は少しずつ、自分の気持ちを言葉にする練習を始めた。「それは嫌だな」「私はこう思っている」という、自分の意見を丁寧に伝えること。最初は恐怖を伴ったが、相手が意外にもそれを受け止めてくれたとき、彼女の中で何かがほどけた。
「自分を出しても、関係は壊れないんだ」
それは、彼女が自分自身に対して信頼を持ち始めた瞬間だった。やがて、彼女は仕事を再開し、パートナーとの関係もより対等で穏やかなものへと変化していった。
気づきを経た人は、他者との関係においても無理をしなくなる。「好かれよう」とするのではなく、「理解し合いたい」と願うようになる。そこには、“演技”も“迎合”もない、素の自分で人と関わろうとする姿勢がある。
加藤諦三は、こう述べている。
「本当の人間関係とは、お互いが自分を隠さずに生きることから始まる」
演技で築かれた関係は、脆い。相手に合わせすぎた自分は、いつか必ず限界を迎える。だが、気づきによって「自分を生きる覚悟」を持ったとき、人間関係は深まる。たとえ意見が合わなくても、尊重し合える。感情をぶつけても、関係は壊れない。その確信が、人と人との「本当のつながり」を育んでいく。
気づきのプロセスを経た人は、周囲からこう言われることがある。
「なんだか、変わったね」
だが、本人にとっては「変わった」のではなく、「戻ってきた」のである。つまり、無理に他人に合わせていた自分から、本来の感情や価値観に従って生きる自分へと“帰還”した感覚だ。
「気づきとは、自分の中にあった真実を取り戻すこと」
本当の自分を生きることは、安心感をもたらす。誰かと比較して一喜一憂することも減り、過去や未来にとらわれることなく、「今」に生きられるようになる。それは、加藤諦三が言うところの「心の自由」に他ならない。
自分に気づくことは、外から見れば小さな変化かもしれない。だが、内面ではまるで地殻変動のような革命が起きている。それまで信じていた価値観が崩れ、新たな視点が芽生え、生き方が根本から変わる。
加藤諦三は、こう結ぶ。
「人は、自分に気づいたとき、人生をもう一度始めることができる」
気づいたその先には、無理に誰かになろうとしなくてもいい自分がいる。失敗しても愛され、怒っても見捨てられないと信じられる自分がいる。人間関係の中で“演じる”必要のない、軽やかな人生が始まる。
そして、その旅路は、終わりのない深化の道でもある。
次章、**終章「加藤諦三のメッセージに学ぶ生き方」**では、これまでのすべてを統合し、「自分に気づく心理学」が私たちの人生にどう生かされるのか、その最終的なメッセージを紐解いていく。
――「人生は、自分との対話である」
心理学と聞くと、専門用語が飛び交い、診断や治療を目的とした学問のように思われるかもしれない。しかし、加藤諦三の心理学は、もっと根源的な問いを私たちに投げかける。
「あなたは、いま、本当の自分として生きているか?」
これは単なる知識ではない。日々の行動、感情、人間関係、そして人生観に直結する、生き方の問いなのである。加藤氏の著作は、一貫してそのテーマに向き合い続けてきた。人間の弱さ、歪み、矛盾に正面から取り組みながら、それらを否定せず、受け入れ、そこから再出発する力を信じている。
本書でたびたび述べてきたように、自分に気づくということは、過去の感情、抑圧された欲求、偽ってきた生き方と向き合うことである。それは時に苦しく、時に痛みを伴う。だが、そのプロセスを経ることで、人はもう一度、自分の人生を選び直すことができる。
「人生は何度でもやり直せる。ただし、そのためには、まず“自分”を見つけなければならない」
気づきとは、人生の“軌道修正”だ。他人の期待通りに生きてきた人が、自分の本当の願いに気づき、新たな道を歩み始める。それは一見、小さな変化に見えるかもしれない。しかし、本人にとっては大地が揺れるような内的革命である。
加藤諦三の心理学の核心にあるのは、「人は自分を受け入れることで、初めて他人とつながれる」という思想である。逆に言えば、自分を嫌っている人間は、他人にも冷たくなり、攻撃的になり、時に支配的になる。
「人を傷つける人間は、誰よりも自分を傷つけてきた人間である」
自己否定は、他者否定へとつながる。自分の存在を肯定できなければ、他人の存在も脅威に感じる。だからこそ、人生における最も重要な課題は「自分を許し、愛すること」なのだ。
自分を許せるようになった人は、世界の見え方が変わる。他人の欠点に寛容になり、怒りをコントロールできるようになる。そして、人生を“戦い”ではなく“表現”として生きることができるようになる。
現代は、情報と選択肢にあふれた時代である。SNSのタイムラインには他人の成功や幸せが溢れ、私たちは常に「比較」と「焦り」にさらされている。加藤諦三は、このような時代の本質をすでに予見していたかのように語る。
「他人の人生を生きているうちは、決して満たされることはない」
自分の感情に気づかず、ただ“正解”を求めて生きるとき、人生は苦しくなる。誰かと比べて一喜一憂し、仮面をかぶって日々をやり過ごすことが“普通”になってしまう。しかし、その“普通”が、心をむしばんでいく。
加藤諦三の心理学は、こうした現代社会への警鐘であり、同時に処方箋でもある。答えは外にはない。自分の中にある「違和感」「不安」「怒り」――それらを直視し、受け止め、問い直すこと。その過程こそが、「本当の自分」を取り戻す道なのだ。
加藤氏は、人間の本質を「対話」に見出した。外との対話ではなく、自分との対話である。感情を言語化し、内面に耳を傾け、自分に問いかけ、応えていく。その繰り返しの中で、人は少しずつ、自分を理解し、整え、方向づけていく。
「孤独を恐れず、自分と語り合えたとき、人は一番大きな安心を得る」
この言葉は、どんな自己啓発書よりも深い響きを持つ。外の世界に期待せず、自分の中にある“感情の声”を聴く。それは、誰かに好かれるためではなく、「自分を大切にするため」の行為である。
本書を通じて、私たちは加藤諦三の視点から、「自分に気づく」ことの意味と価値を探ってきた。それは単なる心理的概念ではなく、人生を変える力であり、生きる姿勢そのものであった。
気づいた人は、自分を押し殺さずに生きる。気づいた人は、他人に振り回されない。気づいた人は、人生の困難を“成長の糧”として受け止められるようになる。そして何よりも、気づいた人は、「人生を自分のもの」として引き受けるようになる。
「あなたの人生は、あなたのものである。だからこそ、あなた自身が、それを知っていなければならない」
今ここから、あなたは「気づいた自分」として生き直すことができる。何歳からでも、どんな過去があっても、人生は始め直せる。自分と対話し、自分を許し、そして自分を生きる――それこそが、加藤諦三の残した、静かで力強いメッセージである。
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