💛TMS AWARD 受賞者 表彰インタ……
ヴェールマリアージュ田園調布(東京都)
2025.04.12
ショパン・マリアージュ
加藤諦三の理論において、「願望」は不足感や心の空白から生まれるとされている。それは、フロイトが語った「欲求」とも、マズローが説いた「自己実現欲求」とも異なる、もっと泥臭く、深いレベルのエネルギーである。
加藤はこう書く。
「愛された経験がない者は、愛されたいと願う。願望は、心に空洞があるからこそ燃える」
―加藤諦三『自分に気づく心理学』
これは、一般的な「夢を持とう」「目標を持とう」という励ましとは一線を画す。彼は、傷ついた自己こそが人を動かすと明言する。そして、この視点こそが、挑戦する人間の本質を暴き出している。
たとえば、貧困や家庭不和といった逆境を乗り越え、成功を収めた多くの人々の背景には、「こんな自分を変えたい」「認められたい」という欠落から生まれた強烈な願望がある。逆に、何不自由なく育った者ほど、“挑戦”という行為の意味を見出せずにいることも少なくない。
加藤は、願望の源が“自己の回復”にある以上、外的報酬(地位、金銭、評価)では人は動かないと説く。彼が頻繁に用いる例が、「人に褒められたい」という願いと、「自分が自分を好きになりたい」という願望の違いである。
「褒められたい人は、他人を基準に生きる。だが、真に挑戦する人は、自分の内なる叫びを基準に動く」
―加藤諦三『生きる意味がわからない人へ』
挑戦とは、評価されるための行動ではなく、自分が生きている実感を得るための行動なのである。そのため、「なぜ頑張れないのか」と悩む人に必要なのは、環境を変えることでも、努力を重ねることでもなく、自分の本当の願望に気づくことだと、加藤は主張する。
人は、本質的に「変化」を恐れる。不安定な状況、先の見えない未来、失敗への恐怖。これらすべてが、挑戦を妨げる要因となる。
だが、加藤は言う。
「人は不安があるから挑戦しないのではない。不安を超える願望がないから挑戦できないのだ」
―加藤諦三『不安と愛』
つまり、**挑戦とは“無謀な行動”ではなく、“強い願望が不安に勝ったときに起こる必然”**なのである。
例えば、貧困を脱したいと強く願う者が、誰もやらないビジネスを始めたり、夢のために安定した職を辞めたりする背景には、「今を変えなければ自分が壊れる」という切迫した願望がある。
この願望があるとき、人は他人に理解されなくとも、笑われても、迷わずに行動する。それは、周囲の目よりも、「自分を取り戻すこと」の方が大事だと知っているからである。
2000年代初頭、東京都足立区。小学生のカズヤ(仮名)は、団地の一室で母と二人、生活保護に頼る日々を送っていた。父親は彼が幼い頃に失踪し、母はうつ病を患いながら日雇いの仕事をつないでいた。小学校の担任は、彼の汚れた靴や給食費の未納に気づいていたが、問題として取り上げられることはほとんどなかった。
彼が中学に進学する頃には、家庭には一冊の本もなかった。しかし、ある日の放課後、たまたま公園に落ちていたビジネス雑誌の特集記事が彼の目に留まる。そこには、元ホームレスがIT起業家として年商数億円を達成したストーリーが描かれていた。カズヤはその記事を何度も読み返し、こう思ったという。
「この人も、最初は何も持ってなかった。俺と同じだった。でも変わった。変えたんだ、人生を」
この瞬間こそが、彼の中で「願望」が生まれたタイミングだった。“今の自分を変えたい”という強烈な欲求。それは、環境が与えたものではなく、不足と向き合った個人の中から生じた願望だった。
加藤諦三が繰り返し述べるように、「願望は与えられるものではない。それは苦しみから生まれる自己への問いかけ」である。
カズヤは中学卒業後、家計を助けるために昼は建設現場、夜は通信制高校に通うという生活を始めた。周囲に学ぶ者はおらず、相談できる大人もいなかったが、彼の内面には一貫してこうした思いがあった。
「俺は、このままで終わるわけにはいかない。人にバカにされるだけの人生なんてごめんだ」
加藤は、こうした「怒りの変換」を高く評価する。彼の言葉を借りれば、「怒りや自己否定を抱える者が、それを“願望”に昇華したとき、人は最も強くなる」。
カズヤは、夜な夜なネットカフェで独学し、プログラミングを習得した。アルバイトで貯めたお金で中古のノートPCを買い、YouTubeと無料教材だけでスキルを磨いた。数年後、個人で受注したWeb開発の仕事が評価され、ついには小さなITスタートアップを立ち上げるに至った。
カズヤは、自らの原動力を後年、インタビューでこう語っている。
「いつも、自分を見下してきた人間の顔が浮かんでいた。でもそれがあったから、諦めなかった」
ここで重要なのは、彼の挑戦の背後には外的成功の欲ではなく、自己否定を超えて“証明したい”という願望があったという点である。加藤諦三の言葉を再び引こう。
「人が本気で挑戦するとき、それは何かを得たいからではない。自分を回復させたいからである」
―加藤諦三『心の休ませ方』
このケーススタディが示しているのは、挑戦とは偶然や才能ではなく、自分の人生を自分の手に取り戻したいという、極めてパーソナルな欲求=願望が源泉であるという事実だ。
カズヤのような人物に共通するのは、願望の強さ以上に、その**“質”の深さである。外的な成功よりも、「自分という存在を証明したい」「価値を持ちたい」という内的エネルギーの持続性**こそが、困難を乗り越える力になっている。
加藤諦三の理論によれば、「本物の願望」は、時間が経っても色褪せない。それは、人間の“生の証明”に関わるからである。カズヤの物語は、まさにこの真理を体現している。
スポーツの世界では、しばしば「限界に挑戦する人間」の姿が称賛される。自己ベストの更新、世界記録の樹立、金メダルの獲得──。だが、本章で焦点を当てるのは、単なる結果ではない。“なぜ、そこまでして挑むのか”という動機の根源である。
多くの一流アスリートが語るのは、「他人に勝つため」よりも、「昨日の自分を超えたい」という内向きの言葉だ。そこにあるのは、加藤諦三が語る「心の欠如から生まれる願望」そのものである。
加藤は述べる。
「強い人間とは、他人に勝ちたい人ではない。自分を乗り越えたい人だ」
―加藤諦三『心の深層を知る』
記録は一つの目標にすぎない。だが、その背後には、「存在証明をしたい」「愛されなかった自分を超えたい」という、深くて複雑な感情が流れている。
元体操選手・内村航平は、オリンピック金メダルを複数回獲得し、「キング・オブ・ジムナスティクス」と称された。だが、彼の真の強さは、勝ち続ける理由にこそあった。
内村はインタビューでしばしば、「美しい体操をしたい」と語っている。「勝ちたい」ではなく、「自分が理想とする演技を、完璧に近づけていく」ことが、彼の原動力だった。
これは、加藤の言う「外的評価ではなく、内的願望が人を動かす」という理論に見事に符合する。
「自分の中に“こうありたい自分”がいる。その自分とどれだけ向き合えるか」
―内村航平(NHKスポーツ特集インタビュー)
ここでの「こうありたい自分」は、加藤がたびたび指摘する「理想自己」である。内村は、その理想像に少しでも近づくことを通じて、自分の存在を認めていたのだ。
幼少期に「負けたくない」「褒められたい」から始まった動機が、やがて「自分に勝ちたい」「自分を証明したい」という高次の願望へと昇華されることがある。これが、アスリートの精神的成長の本質である。
加藤はこのプロセスを、**「心理的未成熟からの脱却」**と呼んでいる。
「子どもの頃は、評価されたいと願う。大人になるとは、自分の願望に忠実であることだ」
―加藤諦三『大人になるということ』
つまり、願望は成長する。外向きだったものが、内向きに変わる。その変化こそが、人を“本気の挑戦者”に変える。
この観点から見ると、「燃え尽き症候群」に陥る選手と、生涯競技を愛し続けられる選手の違いが明確になる。“誰かに勝つ”ためのモチベーションは限界があるが、“自分の本質と向き合う願望”は持続するのだ。
高校駅伝で注目を浴びたある無名校のエース、ミツル(仮名)は、元々不登校気味で自己評価の低い少年だった。走ることを始めたのも、「自分を認めたい」という思いからだったという。
「何もできないって、ずっと思ってた。でも、走るときだけ、自分を肯定できた」
朝誰よりも早くグラウンドに現れ、夜遅くまで残る。雨でも雪でも走る。彼を突き動かしていたのは、「全国大会に出たい」ではなく、「走っているときだけ、自分が生きていると感じる」という内なる願望だった。
彼のようなケースは、加藤諦三が再三述べる「愛されたい願望が、自己実現の願望に転化された好例」である。環境や外的条件ではなく、“心の渇き”が人間を進化させるのだ。
アスリートの挑戦は、単なる肉体の鍛錬ではない。それは、「誰にも理解されない自分の思いを貫く」精神の戦いでもある。
だからこそ、トップ選手ほど繊細で、孤独で、芸術家のような精神構造をしていることが多い。彼らはみな、自らの願望と対話し、それを唯一の指針として戦っている。
加藤は言う。
「人は願望を持つ限り、決して壊れない。願望の火が燃えていれば、どんなに倒れてもまた立ち上がれる」
―加藤諦三『生きる力を取り戻す』【第四章】願望が壊れるとき
―負のエネルギーの扱い方と願望の再構築―
1. 願望は常に“光”ではない
これまで私たちは、「願望」が人を挑戦的にし、自己成長の起爆剤になることを見てきた。だが、すべての願望が健全に機能するわけではない。願望が壊れたとき、あるいは歪んだとき、人は自己破壊に向かうことすらある。
加藤諦三は、願望には「生への願望」と「虚栄への願望」があるとし、後者が肥大化すると自己喪失が起こると警告している。
「愛されたい願望が満たされないとき、人は“評価されたい願望”にすり替えてしまう」
―加藤諦三『心の休ませ方』つまり、自分の中の本物の願望に気づかないまま、他者評価を動機とした“偽の挑戦”を続けると、やがて心がすり減ってしまうのだ。
2. 依存症:願望が歪んだ帰結
現代社会において最も身近な「壊れた願望」の例は、依存症にある。アルコール、ドラッグ、SNS、ギャンブル。これらにのめり込む人の多くは、「本当の自分」を認められない痛みから逃避している。
たとえば、承認欲求を満たせずに育った人が、SNSの「いいね」に依存し始める。そこには、「評価されたい願望」がエスカレートし、自分を演出することだけが目的化してしまった姿がある。
加藤はこれを「願望の対象のすり替え」と説明する。
「本当は“愛されたい”のに、それを自分で否定し、“注目されたい”という形に変換する」
―加藤諦三『自分に気づく心理学』この変換が繰り返されることで、本質的な欲求は放置されたまま、表面的な“刺激”だけが積み上がる。結果、人は「挑戦」ではなく、「逃避」のループに陥る。
3. 「燃え尽き症候群」という願望の崩壊
また、真面目に挑戦していた者が、ある日突然“何も感じなくなる”現象、いわゆる燃え尽き症候群も、願望が壊れた証である。
特に、教師、医師、看護師、スポーツ選手など、「他者のために頑張る」ことが前提になっている職業でよく見られる。
加藤はこのような人々に対し、「本当の願望を見失っている」と言う。
「あなたが頑張ってきたのは、自分の願望のためか、他人の期待のためか」
―加藤諦三『心が折れそうなときに読む本』期待される「良い自分」を演じ続けた結果、“自分である感覚”を失ってしまう。すると、どれだけ成果を出しても空虚で、「なぜ頑張っているのかわからない」という精神状態に陥る。
4. 願望を再構築するために必要なこと
壊れた願望から回復するには、まず**“本来の願望”に気づくこと**が重要である。それはしばしば、幼少期の体験や深層心理に根ざしている。
加藤は言う。
「自分を嫌っている限り、何をしても満たされない。まず“自分を好きになりたい”という願望に気づくこと」
―加藤諦三『大人になりきれない人たち』ここでカギとなるのが、自己理解と自己受容である。心理療法、日記、瞑想、あるいは静かな対話。自分の心に耳を傾けるプロセスこそが、再び“挑戦できる心”を育む。
5. 偽りの挑戦から「本当の願望」へ
偽の願望を燃料にした挑戦は長続きしない。それは他人の目に依存し、失敗すればすぐに崩壊する。だが、本当の願望から生まれた挑戦は、たとえ失敗しても人を壊さない。むしろ、そこからまた立ち上がる力を生む。
加藤諦三はこのように締めくくっている。
「自分が本当に求めていたものに気づいたとき、人はもう、他人の評価に動じなくなる。そこに本当の強さがある」
―加藤諦三『自分に気づく心理学』【第五章】芸術家・作家にみる創造的願望
―破壊と創造のはざまで燃える「心の渇き」―
1. 芸術の始まりは「欠如」から
絵を描く。詩を書く。小説を紡ぐ。音を奏でる。
人が芸術を創り出すとき、その動機はしばしば**「満たされなかった何か」**に起因する。芸術は、現実ではどうしても埋まらなかった心の空白を、想像の中で埋めようとする営みなのだ。加藤諦三は、創造の源泉について次のように述べている。
「創造とは、満たされた者の行為ではない。常に、満たされなかった者が、なおも求める行為である」
―加藤諦三『心の深層を知る』つまり芸術は、自己肯定の結果ではなく、自己肯定を求めるプロセスそのものである。
2. 太宰治―「愛されたい」という痛切な願望
文学史の中でも際立って自傷的な作家、太宰治。彼の作品には一貫して、「愛されたい」「理解されたい」という深い願望が込められている。
代表作『人間失格』に描かれた葉蔵という主人公は、表面的には他人に迎合し、愛されようと努力するが、内心では常に虚無と絶望を抱えている。
「私は、人間の生活を、どだい、まちがっているのではないかと思った」
―太宰治『人間失格』この根底には、加藤がしばしば語る「愛されなかった記憶から生じた深層の願望」がある。太宰の創作は、ただの表現ではない。愛されなかった自分を、文字によって癒す試みだった。
加藤はこのような芸術的エネルギーを「自己治癒の願望」と呼ぶ。自らを否定し続けながらも、書かずにはいられない。その苦しみの中で創られる作品こそが、人々の心を打つのである。
3. 三島由紀夫―「美への執念と自己証明」
一方で、太宰と対極にあるように見える作家が三島由紀夫である。軍人然とした言動、美意識、死への思想──彼の行動のすべては、実は**「理想的な自己を演じ続ける願望」**に貫かれていた。
三島は文学だけでなく、ボディビル、演劇、政治運動と、あらゆる表現を通じて「美しい死」=「究極の自己実現」を目指していた。その思想は、加藤の言う“理想自己の追求”そのものである。
「人は理想と現実の落差に苦しむが、理想を諦めた瞬間に生きる意味を失う」
―加藤諦三『自分に気づく心理学』三島にとっての「願望」は、常に高く、峻烈だった。それは自分の弱さを許さず、現実の自分を否定し続けることでしか存在できなかった。だからこそ、創造は破壊へと至る。
彼が割腹自決という結末を選んだのは、単なる狂気ではない。願望が現実を超えることを要求しすぎた果ての崩壊だったのだ。
4. 「芸術」と「挑戦」の心理的共通点
芸術家の行為と、挑戦者の行為は、根源的には同じである。どちらも、「このままの自分ではいられない」という内なる葛藤から始まり、「何かを残したい」「何者かになりたい」という願望の表現である。
加藤諦三はこう指摘する。
「真に挑戦する者は、敗北を恐れない。なぜなら、その挑戦自体が、自己の肯定であり、願望の実現だからである」
太宰や三島のような芸術家は、時に破滅に至ることもある。だがそれは、彼らの願望が他人に見せるためのものではなく、自分の中で燃え尽きるためのものだったからに他ならない。
5. 芸術家に学ぶ「願望との向き合い方」
私たちは皆、芸術家でなくとも、何かしら表現しようとする衝動を持っている。言葉にする。書き出す。描く。奏でる。そのすべてが、自分の中にある「願望」を形にしようとする行為だ。
現代において、こうした衝動を抑えこみ、ただ「正しい生き方」や「安定した生活」を追うことは多い。だが、加藤は問う。
「あなたは何を失ってでも、手に入れたいものを持っているか?」
―加藤諦三『人生の意味が見えなくなったとき』芸術家たちの生き様は、極端ではあるが、「自分の願望に忠実であろうとした生の記録」でもある。そこから私たちが学ぶべきは、表現の技術ではなく、願望と向き合う勇気である
【第六章】教育と願望の関係
―「褒める教育」では育たない挑戦心の正体―
1. 「褒めれば伸びる」は幻想か
21世紀の教育現場では、「自己肯定感を高める」ことが推奨されている。子どもを叱らずに、**「褒めて伸ばす」**というアプローチは広く浸透しており、多くの親や教師が実践している。
しかし、加藤諦三はこの風潮に疑問を呈している。
「褒めて伸びる人間は、褒められないと動けない人間になる危険がある。願望は、自分の中からしか生まれない」
―加藤諦三『自分を見失う前に』つまり、「褒めて伸ばす」教育は、一時的には効果があるかもしれないが、長期的な“内発的動機”を育てることには必ずしもつながらない。
外からの承認ばかりを求める子どもは、困難に直面したとき、自らの力で立ち上がることができない。
2. 願望を“気づかせる”教育の意義
では、どのような教育が「挑戦する力」や「願望」を育てるのか。加藤はそのヒントを、「気づき」という概念に見出している。
「人は、自分の中にある“本当の願望”に気づいたとき、変わらざるを得なくなる」
―加藤諦三『気づかない力』教育の役割は、何かを教え込むことではなく、子どもが自分の内なる欲求や渇望に気づく場を提供することだ。これはテクニカルな指導というより、心理的な“場の創造”に近い。
たとえば、美術の授業で絵の描き方を教えるのではなく、「君は何を描きたい?」と問いかける。国語で文章を添削するのではなく、「君が本当に書きたいことは何か」を聞き出す。
教育者は“願望の鏡”として、子どもに自己の内面を映し出させる存在であるべきなのだ。
3. 事例:学力の背後にある「願望の温度差」
同じ学力を持つ二人の高校生がいたとする。A君は、親に期待されているから成績を上げようとしている。B君は、将来心理学を学びたいという明確な願望を持っている。
短期的には、両者とも勉強に励むかもしれない。しかし、困難にぶつかったときに耐えられるのはB君である。なぜなら、彼には**「自分の中から湧き出る動機=願望」**があるからだ。
加藤はこの差を「モチベーションの出どころ」と表現する。
「挑戦とは、苦しいことを乗り越えることではない。自分が選んだことだから、苦しみが意味を持つのだ」
―加藤諦三『人生に意味があるか?』教育者や親がこの“願望の質”に気づいていないと、子どもの努力は表面的になり、やがて崩れる。だからこそ、学力より先に、“なぜ学ぶのか”という願望の根を探ることが必要なのである。
4. 教師や親が「願望を潰してしまう」瞬間
最も深刻な教育的問題は、子どもが持ちかけた小さな願望を、大人の無意識な言葉で潰してしまうことである。
「そんなの無理だよ」「現実を見なさい」「もっと役に立つことをやりなさい」
こうした言葉は、子どもの「やってみたい」という内なる声を封じ込めてしまう。加藤はこれを「願望の否定による自己否定の刷り込み」と呼ぶ。
「人が無気力になるのは、失敗したからではない。“どうせやっても意味がない”と思わされたからだ」
―加藤諦三『無気力の心理学』つまり、教育とは知識の伝達ではなく、「あなたの願望は価値がある」と伝えることなのだ。願望を否定された子どもは、やがて“挑戦”という行為そのものを手放すようになる。
5. 願望が生きる力になるとき
教育が成功するとは、子どもが「何になったか」ではなく、「自分の願望を生きているか」で決まる。
東大に入ったか、医者になったかという尺度ではなく、「今、自分の生き方に納得しているか」が最終的な問いとなる。加藤諦三はこう締めくくる。
「人間の尊厳は、どれだけの知識を得たかではない。自分の中の願望を、どれだけ真剣に生きたかで決まる」
―加藤諦三『自分に気づく心理学』願望とは、教育によって生まれるものではない。だが、教育はその願望を“信じる力”を与えることができる。
それは、人生のどんな場面でも人を支える「挑戦する心」の土台になる。
人が「挑戦する」と聞いたとき、多くの人はそこに努力や根性、成功といった外向きのイメージを思い浮かべる。だが加藤諦三が語る「挑戦」とは、それとはまったく異なる次元のものだ。
「人が挑戦するのは、自分を取り戻すためである」
―加藤諦三『自分に気づく心理学』
本稿を通じて見てきた通り、真の挑戦とは「何かを得るための行為」ではなく、「自分の中の願望に忠実であろうとする姿勢」そのものである。つまり、願望に気づき、それを抱きしめ、生きようとする力こそが、挑戦の本質なのだ。
現代社会では、成功の定義が「他人からどう見られるか」という基準に偏っている。SNSのフォロワー数、年収、肩書き──それらは確かに可視化しやすい「成功」だが、人間の生き方の豊かさとは一致しない。
加藤は繰り返し、「評価されること」と「満たされること」は違うと強調する。
「本当の願望は、他人の評価に依存しない。むしろ、他人に理解されなくても手放せないものだ」
―加藤諦三『生きる意味がわからない人へ』
それが、挑戦を“強制”ではなく、“内発”へと変える鍵である。願望が自分の中から生まれたものである限り、失敗しても人は壊れない。なぜなら、それは自分自身との約束だからだ。
願望は簡単に見つかるものではない。むしろ、それに気づくことこそが人生の最大の問いである。だからこそ、誰かの“夢”や“目標”をそのまま借りて生きるのではなく、「私はどうしたいのか」を問うことが、何よりも価値ある営みとなる。
それはしばしば痛みを伴う。自己否定や喪失感、不安や怒りという“暗い感情”を通って初めて、本物の願望に辿り着けることもある。
「願望を持つとは、自分の過去を受け入れ、未来を信じることである」
―加藤諦三『心が折れそうなときに読む本』
その意味で、願望とは“心の進化”であり、人間としての成熟の証なのだ。
このエッセイで取り上げた若者、アスリート、芸術家、教育の場──すべての事例に共通していたのは、最初は誰にも理解されないほど小さな願望の芽だった。
・「見返したい」という怒りから生まれた挑戦
・「理想の自分になりたい」という渇望
・「美しい死を迎えたい」という極限の表現
・「子どもに気づいてほしい」という教育者の願い
これらは形こそ異なれど、すべて「こうありたい自分」という願望が根底にあった。その願望が、やがて人を動かし、他人をも動かし、社会に変化をもたらしていく。
最後に、加藤諦三の言葉で本稿を締めくくろう。
「自分の心の声を信じて生きてきた人は、たとえ何も得られなかったとしても、自分を裏切らなかったという誇りが残る」
―加藤諦三『大人になるということ』
人は、願望を持つことで生きる意味をつかむ。願望に気づき、願望を信じ、願望を生きることが、すなわち挑戦する人生なのだ。
他人に理解されなくてもいい。結果が出なくてもいい。自分の願望に誠実であれば、それが最高の挑戦であり、最も人間らしい生き方である。
このエッセイが、あなた自身の中に眠る願望に光を当てる一助となれば幸いである。
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