平安の世から日本の若者の多くが、心底「恋愛したい!」と夢中になった時期はと言えば、バブル期以外では、西洋からロマンチック・ラブが輸入された直後の、明治・大正時代ぐらいではないだろうか。
当時のロマンチック・ラブ・イデオロギーは、多くの男女にとって、ほぼ実現不可能な「見果てぬ夢」だった。一部の芸術家のように、無理に具現化しようと親や社会に逆らえば、大きなリスクを負うことも分かっていた。
だからこそ、彼らはまるで遥か彼方の夜空を眺め、恋愛という輝く星を仰ぐように、「もし、いつか手に入れることができたら」と強く願ったのだろう。
江戸時代にも、男女があちこちで婚前交渉を楽しむ風景はあったよう。ただそれは、心と心の強い結びつきや「運命の出会い」を願うような、現代の大恋愛や純愛のイメージとは違う。むしろ性的欲求や肉体のつながりが強かったはずだ。
強いてあと一時代あげるとすれば、平安時代。まず恋文を交わし、セックスで互いに相性チェックやコミュニケーション能力をはかっていたこの時代も、あるいは若者自信が恋愛意欲の高まりを実感できた時代かもしれない。
他方、結婚への道筋はどうか。
平安時代、三夜の夜這いが完了した直後、女性の実家の親が婿(男性)を歓待してそこで結婚が成立した。この頃は、セックスが恋愛の「はじめの一歩」であり、恋愛(性)が結婚に直結していた。
ところがその後、鎌倉〜江戸時代にかけて、武士の家庭や良家では「家系を守る」観点から、親や親族が中心に見合いをセッティング、政略結婚が当たり前のように成立するようになった。他方の村落共同体では、村の長を中心に夜這い等が実行され、若者の結婚や出産(人手や労働力の維持)を後押しした。
この頃、日本の結婚市場を支配したのは、「恋愛と結婚は別」「恋愛は、結婚後にすればいい」との発想。つまり恋愛と性、結婚の結びつきはいったん、鎌倉〜江戸時代の「大人の事情」によって、完全に分断されたのだ。
そして明治・大正時代から昭和初期。若者たちは、西洋由来のロマンチック・ラブに憧れ、いわゆる恋愛結婚を夢見た。だが、現実には親の意思による「見合い」が圧倒的多数。ほんのわずかながら存在した当時の恋愛結婚とて、ノッター氏に言わせれば、「幸せな家庭生活」を目標とした、「友愛結婚」でしかない。
その後、戦後に入っても、しばらくは恋愛結婚の名を借りて、職場の上司や親族による「半見合い結婚」の状態が続いた。この頃も、「恋愛と結婚は別」とは言わないまでも、「相手を心底好きになるのは、結婚したあとでいい」との思いが強かったはず。婚前交渉も、基本的には「NO」だったからだ。
となれば、若者たちの大多数が「恋愛したい」と強く願い、それを自らの力で結婚にまで結びつけられたのは、昭和後期の、ほんの一時期だけ。
ただそれとて、現実には親や周りの大人たちが、恋愛か結婚のどちらかに強く関与していたからこそ、成り立っていたこと。実際に若者自身が、純粋に自分たちの力だけで真の恋愛結婚を勝ち取れた時代は、本当に一瞬でしかなかった。
そんななかで、しかも90年代半ば以降にこれほど多くの恋愛レボリューションが起こってしまったいま、無理に「もっと恋愛せよ」「そこから結婚へと発展させよ」と、いたずらに若者を煽っても意味がない。
それよりは、今こそ歴史に学び、いったん昭和の「恋愛結婚」の概念をリセットして、改めて彼らが望む結婚の形を模索するほうが、より現実的ではないだろうか。その一つの方法が、「恋愛」と「結婚」をいったん切り離して考える概念だ。
なぜならば、日本は平安以降の1200年のうち、圧倒的長きに渡って「恋愛と結婚は別」「心底好きになるのは、結婚したあとでいい」との考えを、実践してきたのだから
ショパン・マリアージュ(釧路市の結婚相談所)
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