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愛のエゴイズム 〜 加藤諦三教授の視点から読み解く心の迷路〜

2025.03.30

ショパン・マリアージュ

序章:なぜ“愛”はしばしば人を傷つけるのか

愛とは本来、人を癒し、育み、自由にする力を持っているはずのものである。しかし現実には、「愛しているから」と言いながら相手を縛り、操作し、疲弊させる関係が後を絶たない。このパラドックスの中で苦しむ人は少なくない。

本書では、長年にわたり日本の心理学界で「生きづらさ」の本質を問い続けてきた加藤諦三の思想を軸に、「愛のエゴイズム」という観点から、恋愛を中心とした人間関係の本質を考察していく。「愛する」とは何か。「本当に愛されている」とはどういうことか。そして、「愛によって自分も他者も自由になれる」とは、どういう成熟の姿を指すのか。

全九章を通して、「愛とは何か」という根源的な問いに、現代的かつ心理学的視座から迫る。

第一章:愛とは何か

「愛」という言葉の曖昧さ

「愛している」と誰かが言ったとき、その意味を私たちはどれほど正確に理解しているだろうか。加藤諦三教授は繰り返し警鐘を鳴らす。「多くの人は愛を口にするが、それはしばしば自分の欲望の投影に過ぎない」と。愛とは、他者の幸福を願い、他者の自由を尊重すること——このような利他的な姿をとるべきものだが、現実にはそれとは正反対のかたちで現れることが多い。

たとえば、母親が息子に「あなたのためを思って」と言って過干渉を続ける。これは本当に息子のためなのか。それとも、自分の孤独や不安を埋めるために息子を支配しようとしているのか。加藤教授はこのような「偽りの愛」を「エゴイズムの仮面を被った愛」と呼ぶ。つまり、愛のように見えるが実際は自己満足のための行為である。

フロムの愛と加藤の拡張

加藤諦三は、しばしばエーリッヒ・フロムの『愛するということ』を引用する。フロムは「愛は技術であり、修練を要する」と語ったが、加藤はこれに加え、「自己が未成熟なままでは、愛を技術として扱うことすらできない」と警告する。つまり、真に愛するにはまず自分が自立していなければならない

ここに「愛のエゴイズム」が生まれる隙がある。自分自身が空虚で、孤独で、不安なとき——人は他者を愛することでそれを埋めようとする。しかしそのとき、他者はあくまで“自分の心を満たすための道具”でしかない。そこには、相手の自由も意思も考慮されない。

第二章:エゴイズムの正体 ー 恋愛の名を借りた自己愛

「好き」という感情の裏にあるもの

「あなたのことが好き」——この言葉ほど、人を喜ばせ、そして同時に惑わせる言葉はないかもしれない。恋愛は一見、他者を想う行為に見える。しかし、加藤諦三は問いかける。「その『好き』は本当に相手のためか?それとも、自分の不安を埋めたいだけではないか?」

現代の恋愛には、相手をコントロールしようとする欲求が巧妙に隠されていることが多い。「もっと連絡してほしい」「私のことを最優先に考えてほしい」——これらは一見、愛情表現のようでいて、実は**“自分が満たされたい”という欲望の叫び**である。そこにあるのは、他者を思いやる愛ではなく、自己愛に基づく依存である。

実例:彼を束縛してしまう彼女

A子は大学時代から付き合っている彼氏がいた。彼は穏やかで優しい性格だったが、A子は次第に彼の交友関係に干渉するようになった。「他の女の子と話さないで」「飲み会に行くなら連絡ちょうだい」。最初は可愛らしいヤキモチだったが、次第に彼は「息苦しい」と感じ始めた。

A子は口癖のように言った。「だって、あなたのことが大好きだから…」。しかし彼女の心の奥底にあったのは、捨てられることへの強い恐れだった。加藤諦三はこのような状態を、「愛されたいという不安からくる操作的な愛」と表現する。彼女は「愛しているから」と言いながら、彼を自分の感情安定装置として機能させようとしていたのだ。

エゴイズムは「愛の仮面」を被る

加藤諦三は、「本当に愛している人は、相手の自由を尊重できる」と語る。逆に、相手を自分の望むように変えたい、縛りたいという欲求は、愛ではなく恐れからくるエゴイズムである。エゴイズムは露骨に現れることは少ない。むしろ、**「心配してるから」「好きだから」「あなたのためを思って」**という形で、優しさや配慮の仮面を被って現れる。

この偽りの愛は、しばしば相手を苦しめる。だが、それに気づけないのは、本人もまた愛を誤解しているからである。**「相手を幸せにしたい」ではなく、「相手によって自分が幸せでいたい」**というすり替えに、当人も無自覚なまま巻き込まれてしまっている。

「恋愛依存症」としてのエゴイズム

恋愛依存の本質は、「相手がいなければ自分の存在が保てない」という不安にある。相手が少しでも冷たくなったように感じると、過剰に反応し、不安にかられて連絡を何度もしてしまう——そんな恋愛は、もはや相手を“人間”としてではなく、“不安解消薬”として扱っているにすぎない。

加藤諦三はこうした状態を、「心の中に空洞を抱えた人の恋愛」と指摘する。心に空洞があると、人はそれを埋めるために他人を利用しようとする。そしてそれを“愛”と錯覚する。

愛と所有の違い

恋愛において、よく「独占欲」や「束縛」が語られるが、それは愛というよりも“所有”の感情である。加藤諦三は、「愛は所有ではなく、解放である」と言う。他者を所有しようとする心の背景には、「自分には価値がない」という根深い劣等感がある。だからこそ、自分の存在を肯定してくれる“恋人”というラベルを手放せない。

しかし、愛とは相手を自由にし、その自由の中で選び取ってもらう行為である。支配ではなく信頼。依存ではなく尊重。

第四章:恋愛における依存と執着 — 別れられない心理の裏側

「もうダメだと思ってるのに、別れられない」

「もう無理かもしれない…」と涙ながらに語りながらも、同じパートナーとの関係を断ち切れない人がいる。暴言、浮気、無視、そして心のすれ違い。第三者から見れば明らかに不健全な関係にもかかわらず、なぜかそこから抜け出せない。

加藤諦三はこの現象を、「自分の空虚さを他者によって埋めようとする心理的依存」と捉える。そしてその根底には、「自分ひとりでは生きていけない」という深い自己否定感が潜んでいる。

愛されたい、必要とされたいという欲望

加藤はこう語る——「愛されたいと思う人間は、自分を無条件に愛してくれる他者を必死で探す」。この心理はしばしば、子ども時代に親から十分な承認を得られなかった体験に起因する。親にとって“良い子”であろうと努力したが、どれだけ頑張っても心からの愛を感じることができなかった。そんな人は大人になっても、「愛されるためには我慢しなければならない」という無意識の思い込みを引きずる。

だからこそ、たとえパートナーが理不尽であっても、「私は我慢している。だからいつかきっと報われるはず」と信じてしまう。これは愛ではなく、“条件付きの承認を獲得しようとする試み”である

実例:別れられない彼女

B美は30代のOL。5年間付き合っている彼氏は、B美のことをないがしろにし、約束も守らず、連絡も途切れがち。それでも彼女は別れようとしなかった。「彼にも辛い過去があるから」「私が彼を変えたい」。周囲がどれだけ忠告しても、彼女は彼にすがり続けた。

このようなケースで、加藤諦三は「本当は“彼”が好きなのではなく、“彼に必要とされている自分”にしがみついているのだ」と分析する。恋愛の中での“役割”が、彼女の自己価値そのものになってしまっているのだ。

つまり、恋愛というよりも、「自分の存在意義を感じられる唯一の場所」が失われる恐怖が、別れられない本当の理由なのである。

執着は「自分を愛せない心」から生まれる

加藤諦三は、「自分を愛していない人間は、他人に執着する」と言う。これは非常に厳しい言葉だが、真理でもある。自分自身を認め、心の軸を持つ人間は、たとえ恋人に去られても、自分を失わない。だが、自分を空虚に感じている人にとって、恋人は“命綱”のようなものだ。その関係が切れれば、自分が崩れてしまうという錯覚に陥ってしまう。

ここに、執着の構造がある。恋人との関係が“自分そのもの”になってしまっているため、別れることは「自分の崩壊」を意味する。だから、冷静な判断ができなくなり、「この人しかいない」「私にはこの人しかいない」と思い込んでしまう。

「孤独」と向き合えない心

恋愛依存や執着の背後には、共通して「孤独」への強い恐れがある。孤独を感じると、「私は誰からも必要とされていない」と感じてしまう。加藤諦三はこの恐れを「根源的不安」と呼び、幼少期の親との関係にその起源があると述べる。

幼少期に「あるがままの自分」を認められず、「何かをしなければ愛されない」という条件付きの関係性ばかり経験してきた人は、大人になっても「愛されるためには我慢しなければならない」と信じてしまう。こうして、傷つけられても、見捨てられても、「それでも彼がいないとダメ」と思い込んでしまうのである。

自立した愛への第一歩

では、どうすればこの悪循環から抜け出せるのか? 加藤諦三はまず、「自分の中にある“空虚さ”と正面から向き合うこと」が第一歩だと述べる。相手との関係を通じて自分を満たそうとするのではなく、自分の内面を育てることが必要なのだ

「自分が自分を受け入れられたとき、人ははじめて“愛される必要”から自由になれる」。そのとき、恋愛は依存や執着ではなく、**“対等な関係としての愛”**へと変化する。恋人がいなくても自分でいられる人間同士が交わるとき、はじめて「本当の愛」が芽生えるのだ。

第五章:SNS時代の愛の歪み — 承認欲求と「見せかけの愛」

SNSと“愛”の劇場化

かつて「愛」とは、ごく私的なものであった。他者との関係性は、本人同士だけの密やかな領域で育まれるべきものだった。しかしSNSが発達した現代、愛はしばしば**「見られること」を前提としたパフォーマンス**になった。

恋人との写真を投稿し、「#幸せ」「#運命の人」「#いつもありがとう」とハッシュタグを添える。その行為が悪いわけではない。しかし加藤諦三はここに一つの落とし穴を示す。「それは本当にその人を愛しているからか? それとも、自分が“愛されている人間”であることを他人に示したいだけなのか?」

SNS上の恋愛は、“他者からの承認”を通じて自己価値を確かめるツールとして利用されやすい。これは、愛というよりも「自己イメージの演出」である。

臨床心理学から見る:外的自己と内的空虚

臨床心理学ではこの現象を、**「自己愛的防衛」**と捉える。つまり、自己評価の低い人が、外部からの評価によって自尊感情を補強しようとする心理である。

アメリカの精神分析家ハインツ・コフート(Heinz Kohut)はこのような自己愛構造を、「外的なミラーリング(鏡映反応)への依存」として説明した。SNS上の“いいね”や“コメント”は、このミラーリングとして機能する。恋愛関係においても、「パートナーの存在」そのものが、自分の価値を映す“鏡”になってしまっているのだ。

加藤諦三は言う。「人は、自分の空虚さに耐えられないとき、誰かの存在でそれを埋めようとする」。その結果、「私にはこの人がいる」と発信することで、“空っぽの自己”を繕おうとする。

実例:別れられないインフルエンサー

C美はインスタグラムで4万人のフォロワーを持つインフルエンサー。投稿の多くは、恋人との日常を綴った“リア充”アカウントだった。しかし、実際の関係はうまくいっていなかった。彼は束縛が激しく、彼女を監視し、たびたび怒鳴るような態度をとった。

それでもC美は彼との関係を続けた。なぜなら、「この人と一緒にいる私」こそが、自分の価値を支えていたから。アカウントに溢れる「羨ましい」「理想のカップル」というコメントが、彼女の“内的空虚”を包み込んでいた。

このようにSNSは、現実の苦しさを覆い隠し、虚構の愛を延命させてしまう舞台となり得る。

SNSと「比較による自己愛の病」

加藤諦三は、しばしば“比較”の心理的弊害を説く。「人は比較の中でしか幸福を感じられなくなると、もはや本当の幸福を感じることはできない」と。SNSは、他人の恋愛・家庭・生活のハイライトが常に流れてくる場所である。そこで人は無意識に他人と自分の関係性を比較してしまう。

臨床心理学では、こうした比較依存を「外的基準依存型自己(externally oriented self)」と呼び、自我の脆弱性と結びつけている。つまり、「他人よりうまくいっている」「他人に羨ましがられる」という確認がなければ、自己を保てない状態である。

これは、愛することの本質とは真逆の在り方だ。愛は他人にどう見えるかではなく、「その人といることで、お互いがどう変わっていけるか」にこそ意味がある。しかしSNS時代の恋愛は、**“他者の目を意識しすぎることで、相手との真実の関係に集中できなくなる”**というパラドックスを抱えている。

「つながっているようで孤独」な時代

SNSで「つながっている」ことが前提となる現代。常にLINEが繋がっていないと不安になり、24時間以内の返信が来ないと「もう冷めたのか」と思い込む。加藤諦三はこうした不安を、「心の基盤が脆弱な人間の自然な反応」と捉える。

本来、愛とは“信頼”に基づくものだ。しかし、SNSによって可視化される関係性が、むしろ信頼ではなく「確認」に変質してしまった。既読マーク、タイムライン、投稿の頻度、フォロー関係——そのすべてが、「まだ私を好きでいてくれるのか?」という不安の代替チェックリストになっている。

これはまさに、「愛に見せかけたコントロール」であり、心の空虚さからくる執着の現代的な形である。


愛を“演じる”時代から、愛を“感じる”時代へ

加藤諦三はこう説く。「本当に満たされている人間は、誰に見られていなくても、愛することができる」。それは、自己肯定感の土台があるからだ。臨床心理学の視点でも、自我が成熟し、自己愛が健全な人は、他者との関係に“演出”や“依存”を持ち込まない

これからの時代、本当に大切なのは、「見せる愛」ではなく、「見せなくても続く関係」ではないだろうか。

SNSの中で“理想の恋愛”を演じ続けるより、目の前の相手と、不完全なまま、確かな対話を積み重ねること。その不器用さの中にこそ、本当の愛の成熟が宿るのではないか。

第六章:「いい人」と「やさしい人」の違い ー 支配と共感の心理境界線

「やさしい人ですね」と言われたくて

あなたの周りにも、いつも笑顔で「うん、いいよ」と応じる人がいないだろうか。自己主張を控え、空気を読み、人の期待に応えることを優先する。世間はそういう人を「いい人」と呼び、しばしば賞賛する。

だが、加藤諦三は言う。「いい人は、やさしい人とは違う」。むしろ「いい人」は、他人に合わせることで自分の存在意義を確かめようとする——それはしばしば、自己犠牲の仮面を被った自己保身であり、愛のように見せかけた支配であることすらある。

一方で「やさしい人」とは、相手の気持ちを尊重しながら、自分の境界線も守れる人だ。つまり、共感と自己確立の両方がある人である。

加藤諦三が語る「優しさ」の危うさ

加藤は、「優しさ」が他者への愛であると同時に、「見捨てられる恐怖」から生まれた操作である場合もあると指摘する。

たとえば、恋人が「本当は疲れているのに無理して会ってくれる」ことに喜びを感じていたとしても、実際にはその恋人が「断ったら嫌われるかもしれない」と恐れているとしたら、それは**“やさしさ”ではなく“恐怖による迎合”**だ。

このような「いい人」は、相手に合わせることで自分の価値を保とうとする。しかし、その“優しさ”は長続きしない。なぜならそれは自己喪失を伴うからだ。最終的には、「こんなに尽くしてるのに、どうしてわかってくれないの?」という被害者意識や恨みに変わることさえある。

自己認知理論から見る「いい人」の正体

心理学者ダリル・ベム(Daryl Bem)が提唱した**自己認知理論(Self-Perception Theory)**は、人が自分の内面状態を外的行動から推論する傾向を説明している。つまり、「自分は他人に親切にしているから、やさしい人間だ」と考える構造である。

この理論を「いい人」の心理に当てはめると、こう言える——本来の動機は“嫌われたくない”“対立したくない”という防衛的な感情であっても、「自分は他人に尽くしている」と考えることで“やさしい人”だと自己認識してしまう

これは「外面と内面の乖離」を助長する。つまり、本人は「やさしい人間でいたい」というセルフイメージを維持しているが、実際には「嫌われたくない」という恐怖や「いい人と思われたい」という承認欲求が行動を支配している。

その結果、自分を抑圧してまで「いい人」でいようとし、他者との関係が“本当の感情”を交わすことのない演技的な交流へと陥ってしまうのだ。

実例:誰にでも「いい人」でいる彼

D男は職場でも友人の間でも「気が利く」「優しい」と評判の人物だった。しかし、実際には不満が内側に積もり、突然音信不通になったり、急に怒りを爆発させたりすることがあった。彼は一見「やさしい人」のように見えたが、実は「断れない」「怒れない」「頼まれたら嫌でも応じてしまう」人だった。

彼の“いい人ぶり”は、幼少期の家庭環境に起因していた。感情を出すと怒られる家で育ったため、「人に合わせる=生き残る術」だった。大人になってもそのパターンが変わらず、心の奥では「誰にも嫌われたくない」「誰からも見捨てられたくない」という感情に支配されていた。

加藤諦三はこのような状態を、「自己否定の仮面としての優しさ」と評する。真のやさしさとは、相手のために行動することであり、自己保身のための“いい人”とは決定的に異なるのだ

「やさしさ」とは自己の肯定に基づく力

やさしい人は、必ずしも“ニコニコして何でも許す人”ではない。必要なときには「NO」と言い、相手を甘やかすのではなく「成長を促す関わり方」ができる。

加藤は言う。「本当にやさしい人は、他人の痛みに共感できる人。そして自分の心の痛みにも気づいている人だ」と。つまり、やさしさは、**自己認知の深さと自己肯定の確かさに支えられた“強さ”**なのである。

臨床心理でも、自己理解の深い人ほど、他者との関係において“感情の境界線”を引けるとされている。「私はこれが嫌だ」と伝えることができる人こそ、相手に誠実であり、その誠実さこそが「ほんとうの優しさ」となるのだ。


まとめ:あなたは「いい人」か?それとも「やさしい人」か?

  • 「いい人」は、他者の評価に依存し、自分の不安を隠すために尽くす

  • 「やさしい人」は、自他の感情を尊重し、共感と境界を持って関係を築く

  • 「いい人」は演技的自己、「やさしい人」は成熟した自己認知に基づく存在

  • 「やさしさ」は、自己愛と自己肯定が土台にある“心の筋力”である

加藤諦三の言葉を借りれば、「本当のやさしさは、強さの中にしか宿らない」。自己を欺く“いい人”ではなく、誠実に自分と他者に向き合う“やさしい人”であるために——私たちはまず、自分の心と向き合い、「なぜ自分はそう振る舞っているのか」を問い続ける必要があるのだ。

第七章:心理的自立と愛の可能性 ー 「ひとりで立てる」人間だけが、本当に誰かを愛せる

「ひとりになれる者だけが、本当に誰かと一緒にいられる」

この逆説的な言葉の意味を、どれほど多くの人が理解しているだろうか。恋愛や人間関係に悩む人ほど、「一人では生きられない」と思い込み、他者に過剰な期待を抱く。しかし、加藤諦三は繰り返し語る。「心理的に自立していない人間は、真の意味で誰かを愛することはできない」と。

ここで言う“自立”とは、経済的な独立や生活能力のことではない。心理的自立(emotional independence)とは、自分の存在を他者の評価に依存せず、孤独を恐れず、「自分」という軸で世界と向き合う姿勢である。

自我発達理論から見る「愛の前提としての自立」

心理学者エリク・エリクソン(Erik Erikson)は、その心理社会的発達理論の中で、人間の人生を8つの段階に分けて説明した。その中でもとくに重要なのが、青年期から成人初期にかけての以下の2段階である:

  • 第5段階:「アイデンティティの確立 vs. アイデンティティの混乱」(12〜18歳)

  • 第6段階:「親密性 vs. 孤立」(20代〜30代)

エリクソンはこう述べる。アイデンティティ(自己同一性)が確立していない者は、真の親密さを築くことはできない。つまり、自我が未熟なまま愛を求めても、それは「自己を確立するための依存関係」にすぎず、愛ではなく執着や所有になってしまう。

これは加藤諦三の指摘と完全に重なる。加藤は、「心理的に未熟な人間は、他者との関係の中で自己を埋めようとする」と語る。そして、それは必ず相手を苦しめ、自分自身も満たされない。

「愛されたい」ではなく「愛したい」へ

心理的自立を果たした人間は、「愛されること」よりも「愛すること」に価値を見出す。他者の存在が自分の価値を保証するのではなく、相手の幸せや自由そのものを願うことが“愛する”ということの本質であると気づいている。

これは、自己評価が安定しているからこそ可能になる態度である。他者に認められなければ自分を保てない人間は、恋愛関係を「自尊心の回復装置」として使いがちだ。たとえば、「あなたと一緒にいる自分」が好きで、「あなたそのもの」を見ていない関係。それは愛ではない。自我の空虚を他者で埋めようとする“疑似愛”に過ぎない

加藤諦三はこれを、「自己確立なき愛は、必ず依存に転化する」と表現する。

実例:相手に「求めすぎてしまう」彼女

E子はいつも恋人に不満を抱いていた。「もっと気遣ってほしい」「私の大切さをもっと言葉にしてほしい」——相手がどれだけ努力しても、彼女の満たされなさは消えなかった。

なぜなら、彼女は「自分を愛せていなかった」からである。自己否定感を抱えたまま恋愛に入ると、相手がその穴を埋めることを期待してしまう。そしてそれが叶わないと、失望し、怒り、相手を責める。しかし、本質的には「愛されていない」のではなく、「自分で自分を受け入れていない」のである。

このような恋愛は、決して安定しない。やがて相手は疲れ、離れていく。すると彼女はまた「やっぱり私は価値がない」と思い込み、さらに自己否定を深めていく。**これは心理的自立を果たせていないがゆえの“関係の悪循環”**である。

「孤独に耐える力」が愛を可能にする

加藤諦三は、「孤独に耐える力を持った人間だけが、誰かと深くつながることができる」と説く。自立している人間は、相手が去ったとしても崩壊しない。悲しみはあるかもしれないが、「自分」という軸は揺るがない。

その強さが、相手にとっての安心感になる。心理的に自立した人は、相手を必要以上に縛らない。期待で縛らず、自由を認め、見守る。この“精神的余裕”こそが、関係を長続きさせるための土壌となる。

自立と愛の成熟

加藤諦三が描く「成熟した愛」とは、以下のような構図である:

未成熟な愛 成熟した愛
相手に埋めてもらう 自分を確立したうえで相手と関わる
所有と支配 信頼と尊重
相手に依存する 自分の力で自分を支える
見捨てられることへの恐怖 相手の自由を喜べる

心理的に自立した愛とは、**「私は私、あなたはあなた」**という分離感のうえに築かれる。そしてその分離感があるからこそ、「一緒にいること」の意味が際立つのだ。


結び:愛とは、自分を持っている者同士の共鳴である

自立とは、孤立とは違う。それは、「一人で立っている」からこそ、「誰かと支え合う」ことができる強さである。自我が確立されているからこそ、他者と関わる余裕が生まれ、そこに真の愛が生まれる空間ができる。

加藤諦三の言葉が再び響く。「自分の心に軸がない人間は、誰を愛しても不安になる。そしてその不安は、相手を傷つける。」

だからこそ、私たちはまず、自分の心を育てなければならない。自分を認め、ひとりの時間に耐え、誰にも依存しなくても生きていけるという感覚を持つこと。その自立の上にこそ、他者を心から愛する力が育つのだ。

第八章:愛することと愛されたい欲望の違い

― 「与える心」と「満たされたい心」の心理的分岐点

「愛されたい」という欲望は愛ではない

「誰かに愛されたい」と願うことは、ごく自然な感情だ。人間は社会的動物であり、他者とのつながりの中で自我を育てていく。だが、加藤諦三はこの「愛されたい」という欲望が、しばしば**「愛すること」と混同される危険性**に警鐘を鳴らしている。

彼はこう語る。「愛されたいという欲望は、自己愛の変形である」。それは相手の存在を尊重するのではなく、「自分が必要とされている」と感じたい欲求にすぎない。つまり、愛というより「承認欲求」なのだ。

逆に、「愛する」という行為は、相手の幸福を願い、相手の自由を喜び、見返りを求めない行動である。自分が満たされるためではなく、相手が満たされることに心を寄せる——そこには、精神的な成熟と自我の確立が必要とされる。

自己愛としての「愛されたい欲望」

心理学的に見ると、「愛されたい」という欲望は、**自己愛的構造(narcissistic structure)**の一部である。精神分析家カレン・ホーナイは、自己愛傾向の強い人ほど「他人に理想の自分を映してもらうこと」に固執する傾向があると指摘した。

これは、加藤諦三が「他者を使って自分を満たそうとする愛」と表現する構造と一致する。愛されたい欲望の背後には、「私は価値がない」という無意識の自己否定感があり、それを「誰かからの愛」という外的要素で打ち消そうとする防衛がある。

つまり、愛されたい人は、しばしば「誰かの目に映る理想の自分」になろうとする。だがそれは、相手を本当に見ることではなく、自己像の補強のために“他者を道具化”しているに過ぎない

実例:「愛してほしい」が止まらない彼女

F子は交際中の彼氏に、常に「好きって言って」と求めていた。連絡が少しでも遅れると、「私のこともうどうでもいいの?」と不安にかられた。愛されたい気持ちが強すぎて、彼女の行動は次第に過剰になり、彼は疲弊して関係を終わらせた。

F子は「こんなに好きだったのに、なぜ?」と嘆いたが、実際には「彼を愛していた」のではない。**「愛されていない自分が不安で、それを彼で埋めようとしていた」**のだ。彼の幸せではなく、「自分が安心できるかどうか」だけを求めていた。

加藤諦三はこのようなケースについて、「愛ではなく“愛され依存”」と呼び、それは不安からくる執着の一形態であると説明する。

愛することは「相手のために何ができるか」を問うこと

では、「愛する」とは何か。加藤諦三によれば、それは自分を乗り越えたところにある「与える」行為である。愛する人の幸せを願い、たとえその幸せに自分が含まれていなくても、その幸福を尊重できる。これは「無償の行為」であり、相手を“支配したい”という感情とは真逆である。

このような愛を実践できる人は、自我が成熟している。つまり、自分の内面がある程度安定しており、「相手にどう思われるか」によって自己価値が揺らがない。だからこそ、他者を自由な存在として愛することができる

エーリッヒ・フロムは『愛するということ』の中で、「愛は能動的な力である」と書いている。**“愛される”ことは受動的だが、“愛する”ことは意志であり、力である。**それは訓練と成熟を必要とする。

愛着スタイルと「与える愛」の可能性

心理学者メアリー・エインズワースによる愛着理論では、人は幼少期の親との関係によって、以下のような愛着スタイルを形成するという:

  1. 安定型(Secure)

  2. 回避型(Avoidant)

  3. 不安型(Anxious)

  4. 混乱型(Disorganized)

「愛されたい欲望」が強すぎる人は、不安型に該当することが多い。彼らは相手の反応に過敏で、拒否されることに恐怖し、過度にしがみつく傾向がある。このスタイルでは、愛は常に“安心の供給源”として機能し、与えることよりも“奪うこと”に傾きやすい

逆に、安定型の人は、自分を信じ、他者を信じることができるため、愛されなくても崩れず、愛することに集中できる。このスタイルこそが、「与える愛」の土台となる心理的成熟の証である。

愛されることを手放せたとき、本当の愛が始まる

加藤諦三は、愛についてこう語っている。「愛は、自分の中の空虚と向き合い、それに耐えることで初めて芽生える」。つまり、「誰かに満たされたい」という欲望を手放す勇気が、本物の愛への扉を開く。

愛されたい気持ちは自然なものだが、それに囚われすぎると、他者との関係は「奪い合い」となる。対して、愛することに意識を向ければ、自分の内面が豊かになり、他者と真に共鳴できる関係が築ける。


結論:あなたは“愛している”のか? それとも“愛されたい”のか?

  • 「愛されたい」は、自己愛と不安の産物である

  • 「愛する」は、成熟した意志と共感から生まれる

  • 「愛されたい」人は、相手を“役割”で見てしまう

  • 「愛する」人は、相手の自由を尊重できる

加藤諦三の言葉を借りれば、「真に愛せる人とは、自分の空虚を自分で受け入れ、なおかつ他者の幸せを願える人」である。

私たちがもし、「愛されたい」と強く思ったとき、それは愛の始まりではなく、自分自身の中にある不安と向き合う必要があるというサインなのかもしれない。

第九章:愛の成熟とは何か ― “見守る”ことの難しさ

― 相手を縛らず、手放すことを恐れずに、ただ“信じる”という愛のかたち

愛とは「所有」ではなく「信頼」

恋愛において、多くの人が陥る誤解がある。
それは「本当に好きなら、そばにいたいと思うのが当然だ」「離れるのが怖いのは愛している証だ」というものだ。

けれど加藤諦三は、こう語る。
「愛が深まるほど、距離を持てるようになる。それは、相手の自由を認める強さが生まれるからだ」

未成熟な愛は、「手放すこと=失うこと」だと信じてしまう。だからこそ、会いたい、確認したい、独占したいという欲望が強くなる。だが本当に成熟した愛とは、「相手が自分の知らない場所で成長していくこと」を喜べる関係である。

それはつまり、「見守る」という極めて難しい行為を選び取る愛である。


見守ることは“何もしないこと”ではない

「見守る」という言葉は、しばしば“受け身”や“放置”と混同される。しかし、加藤諦三の思想において、「見守る」とは最も能動的かつ深い愛の実践である。

たとえば、恋人がキャリアや人生の転機に差しかかっているとき——不安や揺らぎの中で自分を見つめ直しているとき——未成熟なパートナーは「こうしたほうがいい」「私が支える」と介入したがる。

けれど、成熟した愛は言う。「あなたが選ぶ道を、私は信じる」。
その沈黙の支えこそが、“見守る”という行為の本質である。

見守るとは、「相手が自分の意志で生きること」を尊重する態度であり、それには、“私がいなくても、この人はこの人として生きていける”という確信と、それを受け入れる覚悟が必要となる。


恋愛と“手放す勇気”

恋愛において、「別れ」や「距離」はしばしば“愛の終わり”と捉えられる。しかし、加藤諦三はむしろ、**「愛が深まると、別れや孤独すら許容できる心が育つ」**と説く。

これは、フロイト的に言えば「昇華(sublimation)」、ユング的に言えば「自己実現(individuation)」と重なる。つまり、恋愛の中で「所有」や「依存」を超えたところに、「信頼と見守りによる愛」が現れる。

それは、「あなたが私を愛してくれる限り一緒にいる」関係ではなく、「たとえ愛されていなくても、私はあなたを愛している」という一方的でありながら成熟した愛のかたちである。

もちろん、これは自分を犠牲にすることではない。むしろ、自分自身をしっかり持っているからこそ、相手の人生のペースを尊重できるのだ。


実例:恋人の留学を支える彼女

G子の恋人は、大学院留学のチャンスを得た。渡航は2年、遠距離になる。彼がその話を切り出したとき、G子の心には当然、寂しさと不安があった。

しかし彼女は、泣きもせず、引き止めもせず、こう言った。「行ってきて。あなたの人生だもの」。
それは“クールな反応”ではなかった。
その裏には、「彼の幸せは、私と一緒にいることだけじゃない」と理解している彼女の深い愛があった。

彼女の中にあったのは、「私があなたの人生を左右する権利はない」という確信であり、「あなたが選んだ道を、私は信じている」という覚悟だった。

そして何より、「彼がいないと私は生きられない」とは思っていなかった。“ひとりで生きる覚悟があるからこそ、ふたりでいることが選べる”——それが、彼女の愛の成熟を物語っていた。


愛着理論から見る「見守る愛」

愛着スタイル(Attachment style)において、「安定型」の人は、パートナーに対して適度な距離感を持ちつつ信頼を寄せられる。これは、幼少期に適切な安心感を得て育ったことが背景にある。

一方で、「不安型」や「回避型」の人は、「離れる=見捨てられる」と解釈しがちだ。そのため、距離や変化に対して強い恐怖を抱き、「見守る」ことができず、すぐに“介入”や“確認”という行動に出てしまう。

加藤諦三の語る「見守り」とは、まさにこの不安を抱きしめながらも、相手の自由を奪わない選択を意味する。そしてそれは、心理的自立と深い共感に支えられた愛のかたちである。


結び:成熟した愛とは、“待てる愛”である

  • 愛とは、「相手を変えようとすること」ではなく、「その人がその人でいられる空間を守ること」である。

  • 愛とは、「言葉で安心させること」ではなく、「黙ってそばにいる勇気」である。

  • そして愛とは、「どれだけ一緒にいるか」ではなく、「たとえ離れていても、信じていられるか」という“見えない絆”である。

加藤諦三は言う。「人は愛されたいから不安になるのではなく、不安だから愛されたいと思ってしまう」
だからこそ、私たちはまず、自分自身の心の不安と向き合い、それを乗り越えなければならない。

そしてその先にあるのが、“見守る”という成熟した愛のかたちである。
それは、相手の人生を尊重し、自分の人生も大切にしながら、静かに、しかし深く、つながり続けていく愛なのだ。

第十章:解放としての愛 — 他者を自由にする力

― 「縛らない愛」こそが、最も深くつながる愛のかたち

愛は、所有ではなく“解放”である

「好きな人が離れていくのが怖い」と感じることは、人間のごく自然な情動だ。だが、加藤諦三は問いかける——「あなたが愛しているのは、本当にその人か? それとも“あなたのそばにいるその人”という役割ではないか?」

多くの人が気づかないうちに、愛する人を“自分の世界”に引き込もうとする。会いたい、そばにいてほしい、いつも笑っていてほしい。それらはすべて、ある意味での**「理想の相手像」への拘束**である。

しかし、加藤が説く愛の完成形は、むしろ逆である。「あなたはあなたのままでいい」「私はそれを見届け、支える」——それこそが“他者を自由にする愛”であり、真の成熟なのだ。


愛における“支配”と“自由”の分水嶺

恋愛や人間関係において、相手を「こうあるべき」と制限する心理は非常に根深い。これは往々にして、自分自身が不安定であることの裏返しである。自分の不安を抑えるために、相手をコントロールしようとする。

だが、他者を縛れば縛るほど、関係は死に近づいていく。
加藤諦三はこう語る。「愛は、相手を解放する力でなければならない。そうでなければ、それは支配であり、執着であり、愛とは言えない」

愛の本質は、**「相手の自由と尊厳を守ること」**である。そしてそのためには、「自分の不安に耐える力」が不可欠なのだ。


実例:恋人の夢を支えた青年

H男は、恋人が海外で起業したいという夢を持っていることを知っていた。彼自身は日本で安定した職に就いており、彼女の夢を応援することは、自分との将来のすれ違いを意味していた。

それでも彼は、彼女の夢を全力で応援した。「君が君らしく輝く場所にいてほしい」と。彼の中には、「彼女が自分のもとにい続けること」と「彼女が人生を全うすること」が天秤にかけられたとき、後者を選び取る勇気があった。

それは、愛がもたらした“解放”の実践だった。
彼女が幸せになることを願いながら、自分のそばにいることを強要しなかった。
その姿勢こそが、「縛らない愛」、つまり“本物の愛”の姿であった。


解放としての愛は、“自他の境界”を尊重する

愛の中において、しばしば混同されるのが「一体化」と「親密さ」の違いである。加藤諦三は、「未熟な愛は、相手と一体化しようとするが、成熟した愛は境界を保ちながら深くつながる」と指摘する。

つまり、解放の愛とは、相手を“自分の延長”として扱わないことである。相手が自分と違う価値観、夢、感情を持つことを喜べるようになるとき、関係性は「依存」から「共鳴」へと変化していく。

これは、精神分析で言う「分離―個体化(separation-individuation)」の完成でもある。お互いが“自立した個”であるからこそ、本当の意味で“結び合う”ことができる


愛されることではなく、“愛を通じて自由になれる”こと

「この人に出会って、私は自由になれた」と感じさせてくれる関係がある。
それは、「自分を変えようとしないでいてくれる人」——そのままの私を尊重してくれる人との関係である。

加藤諦三は、こうした関係を「存在承認の愛」と呼ぶ。その愛の中では、人は自己を守る必要がない。無理に笑わなくていい。正しさを証明しなくていい。評価を得ようとしなくていい。

そして、その自由の中で、人は自ら成長し、輝いていく。

愛とは、“特別な誰かになること”ではない。
愛とは、誰かの中にいながら、「その人がその人でいられる場所」をつくることなのである。


結び:愛は、あなたがあなたでいることを許し、私が私でいることも許してくれる力

ここまで語ってきた「愛のエゴイズム」は、結局すべて、「自分を満たすために他者を操作する」構造に通じていた。
それに対し、愛の成熟形とは、「他者を解き放つことのできる精神の自由」である。

  • 「私があなたを変える」のではなく、「あなたがあなたでいられることを、私は喜ぶ」

  • 「一緒にいなければ不安」ではなく、「たとえ離れていても、あなたが自由なら私は嬉しい」

  • 「あなたは私のもの」ではなく、「あなたは、あなたの人生を生きる人」

加藤諦三が描く“最も深い愛”とは、支配も依存も超えた「解放の愛」である。
それは相手に与えるだけでなく、自分自身も自由にする愛である。

その愛のもとで、人はようやく「愛し、愛されることの本質」を生きることができるのだ。

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